2.「福竜丸の航海」を当てられてこなかったという現状がある(注6)。本稿では、57年のイラストレーション、および60年の日本滞在に関する調査をもとに、シャーンはラッキードラゴン・シリーズで何を描こうとしたのかを探る。リンから依頼を受けたシャーンは、イラストレーションを制作するにあたってどのような準備をしたのであろうか。画家はそれ以前にも事件記事のイラストレーションの仕事を引き受けているが、その際、綿密な情報収集、およびイメージソースの入手をしていることは以前にも指摘されてきた(注7)。しかし第五福竜丸事件については、日本で起きた事件であること、当時アメリカ国内ではマスコミもそれほど大きくは取り上げなかったことなどから、画家が事前にどれほどの資料を手に入れていたのかは、これまでアメリカ人研究者の間でもよくわかっていなかった。アーカイヴス・オブ・アメリカン・アート(Archivesof American Art以後AAAと表記)のベン・シャーン・ペーパース(BenShahn Papers以後BSPと表記)(注8)には、生前シャーンがクリッピングしていた膨大な写真や資料のコピーが保管されているが、そこにも事件関連の資料はいっさい含まれていない(注9)。ところが、1957年9月23日付のリンからシャーンヘの手紙にこうある。「著者からの原稿を待っているがまだ来ていない。彼は木曜日には来ることになっているので、その時に原稿と写真一式を持ってきてくれると思う。手に入れた資料はそちらに送った方がいいだろう。•..きっといいアイデイアを与えてくれるだろう。」(注10)。これを読むと、写真資料がラップからリンを通じてシャーンに手渡されていたことが想像される。ラップは雑誌論文とほぼ同時に出版された書籍『福竜丸の航海』の末尾で、来日の折、朝日新聞、鉦日新聞、読売新聞、共同通信から多くの資料の提供を受けたことに謝意を表しており、実際、書籍に掲載された写真16点のうち9点は朝日新聞社からの提供であることが示されている(注11)。ラップの来日は事件からすでに3年を経ており、事件当時の写真資料は、そうした報道機関からの提供を受けなければ入手困難であったはずだ。ラップはこうしたルートから写真資料を手にしていたに違いない。そしてこれらのうち何点かがおそらくシャーンにも手渡されており、イラストレーションの制作に少なからずビントを与えたと考えられるのである。このとき、シャーンは少なくとも40点の素描を描いた(注12)。そのうち『ハーパース』誌上に掲載されたのは14点。後の『クボヤマとラッキードラゴン物語」に採用されたものを含めると、実際にイラストレーションとして使われたのは28点になる。-195 -
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