鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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1982年の『アサヒグラフ』(注15)にその全体像が掲載されていることから、本来はその中の1点《死んだ彼》〔図l〕は久保山愛吉のポートレートである。口をかすかに開いて笑っているようにも見えるが、視線は厳しい。複雑な表情のこのポートレートのソースとなったのは、久保山没後の毎日新聞(注13)に掲載された写真〔図2〕だと思われる。写真の下に「被爆の様子を語る久保山さん(3月15日)福竜丸のデッキで元気に語る無線長(焼津港にて)」とある。微笑みながら語る姿に、半年後の無念な結末を誰が予想しただろう。しかしラップも書いているように、被爆後早い段階から最悪の事態を危惧していたのは久保山であり、シャーンはそうした久保山の責任感と不安を背負った複雑な感情の揺れをこの写真から読みとった。それをシャーン独特の籠致で描き起こしたのがこの素描なのだと思う。もう1点《病院で》〔図3〕を見てみよう。悲しげに右方を眺める半裸の久保山の座像である。これにももとになったと思われる写真〔図4〕がある。最初1954年4月7日号の『アサヒグラフ』(注14)に手と上半身2枚の写真として掲載されたが、1枚の写真であったことがわかる。シャーンはおそらくこの写真を目にしたのであろう。右の掌を上に、左の掌を下にして腕の両側を見せるようなポーズ、頭部の角度や胸や腕の位置など、写真と素描は非常に近い。実はこの写真は久保山ではない。当時一番重傷といわれていた甲板員・増田三次郎である。1954年の記事は放射能症がどのようなものかを紹介するもので、典型的な症状を見せていた増田の写真が取り上げられている。この時期ほかの新聞にも同様の記事が見られるが、増田と機関長・山本忠司の写真が載せられることが多く、久保山はあまり取材されていない。それほど憂慮すべき状態ではなかった。それにしても写真に写し出された増田の頭部も手も火傷の痕は無惨であり、手は火脹れしている。私たちの目はまず最初にそこに向けられるのだが、シャーンの素描には描き出されていない。そうした特殊な症状より、膝の上に少し差し出すように置かれた右手の何かを語りかけるような仕草、あるいは気丈な面持ちの中に不安を垣間見せる視線が、画家の眼を惹き付けたのではないか。写真が久保山なのか増田なのか、画家にとってそれほど大きな問題ではなかった。シャーンは写真の中から個別の状態ではなく、死の灰を浴びた人間の心のありようをすくい取って表現した。後述するように、やがてこれはシリーズの中の代表作《ラッキードラゴン》〔図9〕へと発展していく。これらの他にも〈放射能》〔図5〕と題された男性の立像とアサヒグラフ掲載の写真〔図6〕の中で右側に立つ人物(注16)など、素描と日本の報道写真との関連を指摘できる例がいくつかある(注17)。必ずしも完全に一致するとは限らないが、参照-196 -

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