鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
206/598

3. 日本訪問(SANE)が設立される。シャーンはそのグラフィックアート部門の会員になった。1958年には、CBSの報道解説番組「SeeIt Now」の「死の灰Jの広告デザインも引きされた可能性は十分指摘できる。おそらく他にもこのような例はあるだろう。『ハーパース』誌の仕事に関して、シャーンは後に以下のような言葉を残している。「私はまず、この皮肉な名前を持つ福竜丸の悲劇を読み始めた。(中略)次々と素描を描いていった。必要な数を遥かに超えて。ほとんどイマジネーションによって。(中略)サッコとヴァンゼッティ・シリーズやムーニー・シリーズを制作した時、私は新聞の写真やクリッピングによって作品を跡付けることにとても注意を払った。しかし日本の作品に関して、もはやそうした作業は必要ないと感じたのである。」(注18)。これを読む限り、シャーンは素描を描くにあたって事実との照合は重要でないと考えていたことがわかる。確かに事実に忠実であることを一義とはしていなかったことは、今見てきたとおりである。かと言って、下敷きなしで全くのイマジネーションのみですべてが描かれたのかというと必ずしもそうではなかった。シャーンの出発点はあくまでも現実の事件であり、被爆した人々の実際の姿を想像ではなく現実のイメージとして自分の脹の中に留めること。そこから彼らの苦しみや哀しみの形を拾い上げていった。画家にとって写真はそのための貴重な手がかりだったのではないだろうか。写真の役割はそこにあったと考える。「昨日夜9時、私はついにラッキードラゴンの仕事を手放さなければならなかった。でももう1年続けられればと思う。](注19)。依頼の仕事は無事に終えた。しかしテーマヘの関心はさらに膨らむことになる。当時、第五福竜丸事件をきっかけに、国際的な反核運動が展開され始めていた。アメリカ国内でも1957年末、核実験に反対し国際平和を提唱する民間組織・セーン受けている。こうした仕事を積み重ねながら、シャーンは第五福竜丸をテーマにした一連のタブロー作品の構想を練り始めていたのではないだろうか。その方向へとさらに大きく傾けるきっかけの一つとなったのが、1960年の日本を含むアジア旅行であった。この旅はもともと、シャーン夫妻と親しいつきあいのあったコロンビア大学社会学教授シドニー・スピヴァック夫妻に誘われて実現した旅だった。道中、スピヴァック夫妻と別行動をとったり合流したりしながらアジア各地を訪ね、最後はヨーロッパを回って帰国するというほぼ半年にわたる長旅の計画であった。シャーンが夫人ととも-197 -

元のページ  ../index.html#206

このブックを見る