されたわけではないことは容易に想像される。とはいえ残されている資料の中に、滞在中のシャーンと福竜丸事件との接点を見いだすことが全くといっていいほどできないというのは、これもまた不思議でならない。焼津を訪れたのか、福竜丸関連の取材を自ら行ったのかどうか、現時点で解答を出すのは難しい。しなかったと断言はできないが、したとして限定的なものでしかなかった。では一歩踏み込んで、故意に接触をもたなかったと仮定したらどうだろう。シャーンは日本で何を見、何を感じ取ろうとしたのか。日本で撮った写真を手がかりに考察してみたい。ハーバードのコレクションの中に奈良東大寺とわかる写真が何枚か含まれている。毘慮遮那仏の写真も4カットあるが、「大仏殿の出口のわきにあるおびんずる様のような大きな木彫」の写真が5カット〔図7〕、ネガや焼き増しプリントを含めると現在確認できるものは全部で14枚ある(注30)。実はこの奈良行きには日本の画家・阿部展也が同行しており、その時の様子をある雑誌に書いている。「たくさんの見物客が次から次へとこの像の前を素通りして流れてゆくなかで、シャーンは一人ためつすがめつ眺めている。」(注31)。天平時代の蒼々たる国宝仏が並ぶなか、画家はそれらには目もくれず、どこにでもあるキッチュな像にカメラを向けた。阿部もなんでこんなものと思うような、日本人の眼にはあまりにもありきたりな、あるいはどこか俗悪でさえあるものがシャーンの眼を惹いた。箱根を訪ねた時の写真も今回同定できたのだが、富士箱根伊豆国立公園の美しい自然ではなく、芦ノ湖の湖畔の賽ノ河原と呼ばれるところにたたずむ、よだれかけをしそれらは芦ノ湖でなくては見られないような、特別な風物ではない。このほかも、すぐにそれとわかるような写真は少ない。どこにでもありそうな場所やものが取り上げられている。「まず着いた国の町を歩いてまわり、人々の生活を見、そういう人々を理解するために、その人々を支えている文化的な遺産にふれるというゆき方をしております。」(注33)とシャーンがいう時、文化遺産とは権威に支えられた文化ではなくて土着的な民衆文化を指すのだろう。それらを通じてシャーンが知りたかったのは、普通の日本人の生活、体の奥に染みついた風習や信仰のようなものだったのではないか。特別なもの突出したものではなく、その奥底にある誰にでも共通したもの。それは実はシャーンが、ラッキードラゴン・シリーズで表現しようとしていたものともオーヴァーラップするのである。「漁船に乗り、そして放射能汚染によって亡くなった無線技師は、あなたや私と同じ人間だったのです。だから彼を描く必要はない、私たち自身を描けばいい、そういた4体の道祖神に向けてシャーンは何枚もシャッターを切っている〔図8〕(注32)。-199 -
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