4.ラッキードラゴン・シリーズう気持ちが私にはありました。」(注34)とシャーンは語る。死の灰の脅威は、地球に住むどんな人間にも同じように襲いかかる。であるのなら久保山愛吉の苦しみや哀しみは個別の人間の問題ではなく、人種や宗教や階級を越えたすべての人に共通する痛み。久保山はもはや久保山である必要はなく、日本人、ひいては自分も含めた人類を象徴する。ラッキードラゴンはシャーンがそれまで描いてきたテーマ以上に普遍的な重みを持つものであった。したがって本格的に取り組むためには、第五福竜丸という個別の事件そのものからはいったん離れ、一歩退いたところから日本を知り、事件を考える必要があった。そのためにシャーンは焼津にも行かず、事件の取材もせず、ひたすら京都の街中を歩いて、街のようすや人々の暮らしを眼に収めたのではなかっただろうか。そして4月22日、その後のスケジュールをすべてキャンセルして、シャーンはアメリカに戻る。た個展「ラッキードラゴン物語」に10点のタブロー作品が発表された。いわゆるラッキードラゴン・シリーズである。ここまで見てきたような個別から一般へ、特殊から普遍へというような思考の流れの中で、シャーンはイラストレーションをどのようにシリーズヘと展開させたのだろう。代表的な作品《ラッキードラゴン》〔図9〕を見てみることにしよう。〈病院で》〔図3〕という素描には、同制作年、同タイトルのものがもう2点ある。〔図3〕と同構図だがやや簡易な素描の〔図10〕とベッドに座った半裸の座像〔図11〕である。後者の人物は右手に紙を持ち、左の拳をベッドに押しつけており、細部は異なるものの、ポーズは《ラッキードラゴン》にかなり近い。前2点とタブローの間に位置する素描だと考えてよい。すでに57年の段階で、《ラッキードラゴン》の構図はほぼできあがっていたということになる。しかしタブローと素描の一番の違いは、何といっても久保山の不気味な雰囲気、グロテスクさであろう。気持ち悪い、怖いと私たちはまず感じてしまう。怖い。しかし、死の灰を浴びた被害者の悲惨さが私たちを怖いと感じさせるのだろうか。確かに焦げたような色の肌はグロテスクだ。しかしそれ以上に怖いのは、どす黒い頭部の人間とは思われない巨大さと、意志の存在がまるで感じられない宙に浮いた脹の表情である。シャーンは最初イラストレーションを描くとき、写真から無惨な火傷や症状の描写を削り落とした。それを描くことを目的とはしなかった。であれば《ラッキードラゴン》のグロテスクも、死を招くほどの被害1961年10月10日ー11月4日、ニューヨークのダウンタウン・ギャラリーで開催され-200-
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