鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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。ラッキードラゴン・シリーズは、こうして第五福竜丸事件を遥かに越えて、人間や(1) ラルフ•E・ラップ著、八木勇訳『福竜丸』みすず書房、1958年、247頁。ラルフは原書(Ralph E. Lapp, The Voyage of the Lucky Dragon, Harper & Brothers Publishers, 1957, 58)で滞在日程については詳述していない。またグリーンフェルドは約1年日本に滞在したと記している(How紅dGreenfeld, Ben Shahn, Random House, 1998, p. 307)。本稿では、前著末尾に記された朝日新聞の外報部員でラルフの日本滞在中同行していた八木の記述を採用する。(2) Ralph E. Lapp, "The Voyage of the Lucky Dragon 1 -3 ", Harper's Magazine, December 1957-Febru紅y1958. (3) John Barlow Martin, "The Blast in Centralia No. 5: A Mine Disaster No One Stopped", Harper's Magazien,M紅ch1948/John Barlow M紅tin,"The Hickman Story", Harper's Magazine, August 1948 (4) 個展カタログ(theSaga of the Lucky Dragon, Downtown Gallery, 1961)には、タブロー作品が9点記されている。うち8点は同定できるが、《TheMan from Y aizu》は大きさから判断して現在《It'sNo Use to Do Any More〉として知られる作品と推測される。またここに記されていない〈F紅ewell》もArchivesof American ArtのDowntownGallery Papers, Lucky Dragon Seriesによると出品されたことが確認できる。したがって10点となる。(5) Richard Hudson & Ben Shahn, KUBOYAMA and the saga of the Lucky Dragon, Thomas Yoseloff, 1965. )王の凄惨さとは別ところに、その根拠があるとは考えられないだろうか。シャーンは来日中、ある新聞記者にこう語っている。「科学者も研究の成果がもたらす結果について、社会的責任に目をそむけるとこはできない。」(注35)。人間が何千年もかけて積み上げてきた英知の成果が、自らに刃を振るって襲いかかるという状況のグロテスクさ。自滅するために頭脳を酷使する人間の愚かさ。頭が肥大化した久保山の奇妙な姿は、被害者であると同時に加害者でもある人間の姿を象徴しているのではないか。シャーンがいう「私たち」とは、そうした広い意味での人間存在をさしていたのだと思、つ社会の根元的な問題に関わろうとしていた。そこに辿り着くためには、知識として得られた事実の集積を日本という場所でいったん洗い流し、自分の眼で日本の根っこを見据える必要があった。「私の東洋でのこの旅の目的を、日本であるといってもさしつかえないでしょう。」(注36)とシャーンは明言している。ラッキードラゴンに関連する具体的な足跡を日本で残すことはなかったが、この滞在がシリーズの制作に果たした役割は決して小さくはなかったと思われる。本稿ではシリーズ各作品についての考察はできなかった。シリーズ以前の作品との関連という視点も含めて、今後も調査を進めていきたい。そしてシャーンが伝えようとした全体像を明らかにしながら、晩年の画家の仕事を位置づけたいと考えている。-201 -

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