鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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漆芸品も消失したが、昭和53年(1978)『琉球漆工芸』の刊行(荒川浩和•徳川義宜朝の臣下国として冊封された。以来、中国との朝貢・冊封体制を保持しつつ、慶長11年(1609)の島津侵攻以降は薩摩の支配下に置かれ、明治12年(1879)に沖縄県となる。中継交易国家の琉球は、日本や中国、朝鮮半島そして東南アジア諸国との国家間交流や交易などを通して、独特な複合文化を成立させた。王国における祭司儀礼をはじめ芸能や美術工芸、さらに食文化など多岐にわたり周辺アジア諸国の貌が見え隠れする。漆芸についても、中国や日本などの影響を大きく受けながら琉球独特の漆芸を確立した。16世紀初頭には、かなりレベルの高い漆芸技法をノロ(神女)の遺品である黒漆鳳凰沈金丸櫃(沖縄県指定文化財)やハプスブルグ家の遺産目録を伴う「朱漆花鳥箔絵椀」(オーストリア・アムラス城蔵)などの漆器から確聡できる。国外からも高い評価を得た漆芸品は、王固の権威を象徴する贈答品や経済基盤を支える交易品として重要な位置を占めていた。したがって、その製作にあったっても、王府組織の貝摺奉行所による厳重な品質管理の下で行われた。しかし明治以降は王国の崩壊に伴い貝摺奉行所も解体し、漆器生産は民間工房に委ねられ、近代期の沖縄県が、廉価な量産品の産地としてのイメージが定着するような漆器も製作された。今次大戦後で多くの著)がきっかけとなり、琉球漆芸への関心が高まり、平成2年には漆芸専門の浦添市美術館の開館へと繋がった。近年は浦添市美術館を中心に科学分析などの研究も進められており、優れた独特の琉球漆芸が再評価されつつある。4琉球の「堆錦」と「捲胎漆器」「堆錦」は、立体的な加飾技法で一見堆朱や木彫にも見紛う。沖縄に最も定滸している技法だが、創始は中国の『秦飾録』の記録により天啓5年(1625)頃と考えられる。琉球への導入記録はないものの『球陽』巻十の記録で、康煕54年(1715)には琉球でも製作されたことが確認できる。製作方法は漆に顔料を混ぜ金槌などで叩きながら強く練り合わせ、圧延し薄くシート状にした堆錦の「餅」を作り、文様に切ったり、型抜きをして器物に貼り付ける。また朱色の「餅」に細かく刻印を施し、器物に貼り付けると堆朱風の堆錦となる。漆の層に厚みがあるため、乾燥を促進するためには湿度が必要で、その製作には地域が限定される。「捲胎漆器」とは、テープ状にした竹または木材を捲き上げて成形した素地の漆器である。これまで琉球漆芸技法では言及されていない技法だが、近年のX線による理学調査で確認された。丸形食籠の肩部分や裾の広がった足付き盆などの成形技法であ-207 -

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