つ。Palen bung」の記録を伴う。調査方法は漆器の熟覧、採寸、撮影の手順で行った。これらの漆器は、オランダがインドネシアを植民地にしていた時期の収集品だが、オランダ軍人学校附属のブレダ(Breda)民族学博物館が所蔵していた資料がコレクション中核となっている〔図8〕〔図9〕〔図10〕。また、アムステルダムの国立博物館では1680年の記録を伴う漆塗りの武具を確認した。鮮やかな朱漆に桐紋や花文様を施した、矢筒や火縄入れ、手甲、肩掛けカバンなどの一揃いである〔図11〕。キャプションによると、オランダ海軍の司令官がバタビヤの友人から贈られた品で、ジャワの海岸沿いで製作されたとある。このような、由来が明らかな伝来品は基準資料となる漆器である。インドネシアの漆器に関して、民族学博物館附属図書館での文献の確認も行った。資料によると、インドネシアの漆器はスマトラの中心都市パレンバンで、中国から輸入した漆液を用いて製作された。中国的な意匠や金箔などで加飾され中国系の人々が儀式用や香料入れとして用いたことが確認できた(注4)。オランダ国立民族学博物館の琉球漆器は、常設で5点展示されている。先行研究もあり(注5)、その確認も含めて24点の熟覧、採寸、撮影を行った。特筆すべき漆器の「朱漆芭蕉堆錦書見台」〔図12〕は、稜線のくつきりした堆錦で堆朱風堆錦も併用した19世紀頃の漆器である。近年の琉球漆器の形態として書見台は貴重な資料であろ3)台湾の琉球漆器ー近代期の堆錦一堆錦が沖縄県外で初めて製作されたのは、日本統治下の台湾であった。堆錦は湿度が大きく関係する技法で、17世紀に中国から導入された後は、琉球の気象条件に非常に適合し、技法のバリエーションも増やしながら定着して今日まで継承されている技法である。湿度の面から他府県では困難とされる技法だが、気象条件の類似する台湾は十分に製作可能な地域といえる。台湾堆錦は戦前の短期間ではあるが、沖縄県外で初めて製作された堆錦である。今回の調査では、台湾・裔尾市博物館で開催された「漆器展一由蓬莱漆器看台湾日治時期的文化総意産業ー」の見学と、苗栗県の漆器職人の謝良進氏から聞き取り調査を行った。日本が台湾を統治した1895年以降、台湾には日本の漆器工房や漆器伝習所が建設され、漆樹の植林なども試みられるようになった。展覧会カタログによると、昭和16年(1441)、静岡県の理研工業株式会杜が、台湾-210 -
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