(1949)に閉鎖された(注7)。4)中国・故宮博物院の琉球漆器■1879)にわたる交流の歴史がある。2年1貢の貢期で中国皇帝へ進貢し、皇帝の即新竹市に理研電化工業株式会社(以下、理研とする)を設立。同社の漆器工場では、堆錦の製作も行われた。理研は元々、航空機器などの製作が専門だが、原料不足などから当時台湾や日本人の生活に定着している漆器産業に転向した。百名を越す現地職人の技術指導は生駒弘(1892■1991)(注6)をリーダーとする沖縄の漆職人たちが担っていた。台湾産木材を素地に挽物や指物の木工技術で、椀や盆各種箱物を成形し漆を塗り加飾を施す。加飾技法は主に堆錦であった。理研製漆器の特色は、台湾の果物模様の堆錦漆器である。昭和17年(1942)頃からは、第二次大戦が激化し軍用食器を生産するようになった。終戦後は国民党政府の管理下に置かれたが、昭和24年展覧会は個人から寄贈された理研漆器の膳や皿、菓子器などが展示される〔図13〕。展覧組組長許良雄氏によると、台湾の漆芸にはサトウキビ殻を圧縮成型した素地や豚血下地などもあるということで、改めて琉球漆芸との重なりを確認した。理研当時の職人が健在とのことで、苗栗県の謝良進氏(1927■)を訪ねた〔図14〕。謝氏は15歳で理研に入社した最年少の漆器職人である。謝氏によると、理研の製作は当時の漆器生産では特異な分業システムで、非常に合理的に行われた。そのため、当初は木工関係にしか関わらせてもらえず、漆技術はしばらくして修得したとのことである。戦後は漆器製作から販売までの会社(台湾漆器股伶公司)を経営している。現在の台湾では、漆器産業は廃れている。堆錦も製作されていないが、是非復興させたいと強い思いを語ってくれた。琉球王国は中国の明・清代に中国冊封体制下の朝貢国として、およそ500年(1372位には慶賀使を使わせ、琉球国王の即位には中国から冊封使が派遣された。琉球は冊封の礼に謝恩使を赴かせた。このような交流の中で、琉球から中国へ多くの琉球の物産はじめ日本や東南アジアの品々が進貢品や献上品として渡っていった。そして、これらの多くの品々が、かつての皇帝の居城であった故宮博物院に収蔵されている。本調査は、本年8月20日(金)〜 9月30日(木)那覇市で開催される「帰ってきた琉球王朝の秘宝展Jへの出展作品の調査と併せて行った。故宮博物院には、24件の琉球漆器が確認されている。特に黒漆雲龍文様の螺鋪漆器は王府の交易記録集『歴代宝案』にも頻繁に記載されている。琉球王尚家伝来品の「黒漆宝珠双龍文螺細東道」(重文・那覇市蔵)とほば同形の「黒漆嵌螺釧双龍戯珠長-211 -
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