鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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4)。しかし、このレオナルドの言葉は、下村寅太郎が「画家は単に見るのではなくよって修正を受けたり、変更されたりすることはほとんどない。他にとっての基準系となりがちである。この基準系にある程度適合できるよう、他の感覚は柔軟に融通がとれるようにできている」(注2)とされる。しかし、西欧の近代文明において、こうした「視覚の専制支配J(注3)に対して他の感覚とくに触覚の回復が図られてきた。それはまた、眼を讃芙し、眼によって彼らの絵画世界を構築したレオナルド・ダ・ヴィンチ及びセザンヌの絵画論とそれにかかわる批評において特徴的に見いだすことができる。「魂の窓と呼ばれる眼は、それによって共通感覚がもっとも豊富かつ壮大に限りない自然の作品を考察しうる第一義的な道である。耳は第二義的なものだ、というのは眼がすでに見終えたところを語ることによって自己に貫禄をつけるからである」(注描くことによって見る」「眼が見るものは現的に作り出す時に初めて明瞭になる」(注5)と述べ、「手」の行為について触れることで、レオナルドの視覚の優位に隠された近代的特質が明示された。さらに田中英道氏がそのレオナルドの「手」について「手をいかに描写するかは語っても彼の手自身について述べないのは、あたかも『神』や『生活』や『作品』自体について述べないのと同じ理由なのかもしれない」と述べ、それは「すべて彼の絵画作品の中にあらわしている」(注6)と語るとき、さらにいっそう「手の人」としてのレオナルドが強調される。一方、「眼と手の人」(注7)としてのレオナルドの直観的で思惟的な絵画は、セザンヌにとっては、「凝りすぎる」ものであり、本来画家は色彩的な論理にのみ服従すればよく、彼は「頭脳の論理には絶対に服従してはいけません。自分をそれにゆだねたら、破滅する。いつも目の論理。正確に感じれば、正確に考えることになりますよ。絵画はまずひとつの光学です。われわれの藝術の素材(マチェール)は、われわれの目の考えているものの中にある」(注8)と語った。ここには、視覚の絶対的優位が表明されている。しかし、、ここでもやはり「あのはかない網膜的感覚の優位」に対して、彼は不満をおぼえるようになり、「虹色に変化する光の下にありながらも、実際に存在するものがもっている堅牢性と永続性とを表現する必要につきまとわれ(中略)感覚を分析し、それを知性の検討に従わせ、それによって感覚から出発しながら一つの秩序を構築」(注9)することに突き動かされることになる。このとき最初に述べた視覚藝術としての絵画に転回が生じる。コリングウッドはセザンヌについて彼はまさに正しかったとし、「絵画は視覚藝術ではあり得ない。人はもう一度くり返せば手がそれを再-218 -

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