2.ジャン・ルメールの作品における幼児バッコスィアーノ風の流動的な筆づかいと暖かな色合いで仕上げられた《バッコスの養育》は、まだ自身の様式を練りあげる途上にあったプッサンの、古代とテイツィアーノからの学習成果を示そうとした実験的なこころみと解される。以上、《バッコスの養育》において、プッサンが「背後からニンフに支えられながら山羊に乗る幼児バッコス」の図像を古代作例より借用した可能性を指摘した。以下では、1620年代後半から30年代後半にかけてローマに滞在し、プッサンと活動をともにしていた同世代の=人のフランス人画家、ジャン・ルメールとジャック・ステラの作品における、この図像の転用のあり方をたどってゆく。ジャン・ルメール(1601-1659)については、初期資料に乏しいうえに、一世代のちの同姓の画家ピエール・ルメール(1612-1688)(注27)としばしば混同されたことも手伝って、その生涯や作品の帰属に不確かな点が多かったが、近年、急速に研究が進みつつある(注28)。ルメールは、1613年から39年までローマに滞在したのち、しばしローマとパリの間を行き来していたが、1642年以降はフランスに留まって活動した(注29)。今日、ジャン・ルメールの作とされる絵画のほとんどは、古代の神殿やヴィッラを厳密な遠近法に基づいて配置し、古代史や神話からの人物を点景的に散りばめた風景画である。現存する古代遺物だけでなく、パッラーデイオら)レネサンス以降の著作家たちによる古代建築の手引き脅を幡きながら、失われた古代の景観を再現したルメールの風景画は、カッシアーノ・ダル・ポッツォに代表される当時のローマの古代愛好家の趣向に適うものであった(注30)。ローマ滞在中、ルメールはプッサンと極めて親しい間柄にあった。1629年から30年にはプッサンとアトリエを共有していたし(注31)、また両画家ともポッツォの「紙の博物館」の計画に関わっていた(注32)。プッサンが人物を、ルメールが背景の建築物を担当する形で共同制作も行っており、よく知られた例としては、シャンティのコンデ美術館に所蔵される〈父の剣を発見するテセウス》(注33)が挙げられる。ところで、先行研究では、ルメールによるプッサンの《バッコスの養育》からのモチーフの借用について、既に二点の作品が指摘されてきた(注34)。両作品とも、ルメールがプッサンとアトリエを共有していた1630年頃の制作と考えられている。一点は、ダブリンのナショナル・ギャラリーに所蔵される《バッコスの養育》〔図8〕である(注35)。右背景には、1552年に建築家アントニオ・ラバッコが著した古代建築書における復元図に基づいて、古代のハドリアヌス帝の霊廟とエリオ橋が再現-231 -
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