鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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ア美術運動との接点がうまれた。このグループが左翼的傾向を帯びてから参加したものに、小樽出身の高森捷三がいることも注目される。AR所属の大月源二は、造型に次のように呼びかける。「最近諸君は『プロレタリアートの生活へ赴け!かくしてプロレタリア美術家は自らの第一条件を獲得するだろう』と叫び始めた。このことは諸君の祝福さるべき一進出であろう。だが、問題は常に実践することにある。君達が我々と共に真の実践の道を歩み始めたとき、その時こそ初めて、『無産者運動のための美術的機能の利用』という二元論的誤算が克服され我々がポスターと漫画だけをプロレタリア美術だと思い込んでいると為す、君達アトリエ・マルキストの近視眼が匡正され、そして1928年のxx日本に於けるプロレタリア美術家は何をなすべきか、又彼らは如何なる現実をその作品の主題となすべきか、如何なる様式を(傾向ではなしに!)選ぶか等々を身を以て理解するに到るであろう」(中略)「一日も早くわが『ナップ』との合同へと押進まれんことを希望する(注2)」この呼びかけから間もなく話合いがもたれ、それぞれ歴史的な背景も、表現形式も異なる両者が、1928年第1回プロレタリア美術大展覧会を開催し、のち合同大会を開き、唯一の全国的組織としてまとまっていく。同年蔵原惟人の「プロレタリア・レアリズムヘの道」が発表され、政治的主張と美術表現の結びついた特異な美術運動が弾圧下で展開していった。日本プロレタリア美術家同盟(PP)はあまりにも短期間に二つの団体が合流したために、作品の傾向の違いと批判、感情的なもつれがあり、両者の間にはじめから多くの溝があった。その活動はマルクス主義と結びついた、まだ20代〜30代の若い美術家たちによるもので、統一してからもナップ系からは大月が、造型からは岡本、矢部がその主張を代表し、激しい論争が『戦旗」『造型美術」などの雑誌の誌上で行われた(注3)。旧造型は短期間に劇的な変化を迎え、ARとの違いはごくわずかのように見えながら、内実は相当に異なっているような違和感がずっと続き、派閥的なものがあったと思われる。企画であり、その会場は東京府美術館であった。このときの会場申し込みは当初「造型」が自らのグループ名で予約していた(注4)。もし「造型」が存在せず、画壇から離れ一面的な方向性しかもっていなかったARだけの力では、プロレタリア美術運動がこれほど大きく勢いある組織に発展したかどうか定かではない。しかし、政治活2 日本プロレタリア美術家同盟の二つの対立軸第1回プロレタリア美術大展覧会(1929)は、両者が共同開催するという画期的な-16 -

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