鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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肉太で重厚な書体(注l)の大字写経は、奈良朝後期にさかんに制作されるようになるが、その原因は一般に、「大字賢愚経」(一般に大聖武と呼ばれる。以下、大聖武とする。)〔図3〕の影響を受けた結果であるとされる。大聖武の「聖武」とは聖武天皇のことであり、その文字が、当時の経典に比べ破格の大きさ(表1)で、また文字そのものの造形に独特の力強さと風格をもっことから、東大寺の大仏を造立した聖武天皇の書とされ、通称「大聖武」と呼ばれてきた。大聖武は、奈良朝において最も著名な大字写経であり、当時の写経生がこの大聖武に多大な刺激を受けた結果、大字写経が流行したと考えられている。しかし、今回着目する朱印経は近年、歴史学の立場から、法華寺の伽藍整備の一環として光明皇太后が発願したものであり、総国分尼寺の威信にかけて制作された「当時における最良の新写一切経であった」という見解が出された(注2)。したがって、そのような情況の中で行われた写経制作に、書き手に過ぎない写経生の嗜好が反映されたとは考え難いのではないだろうか。そこで本研究は、奈良時代後期写経の代表的遺品とされながら、これまで特に言及されることのなかった朱印経の奈良朝写経における位置付けを、五月一日経の写経事業との関係に着目することにより明らかにし、その検証を通じて、奈良時代後期における大字写経制作の実態について考えてみたい。1.五月一日経と朱印経五月一日経は、天平勝宝4年(752)の大仏開眼会で使用された一切経として、奈良朝における最高権威の一切経として位置づけられてきた。この一切経は、中国・唐時代、玄宗皇帝(712■756年在位)の勅命により編纂された当時最新の経典目録である『開元釈教録』を基準とし、奈良朝の国家的写経機構の一つ、光明皇太后の写経機構である皇后宮識系統写経機構で制作されたものである(表2)。この五月一日経と朱印経は、同じ写経機構において制作されており、さらにこれらが一連の事業であったことは、天平勝宝6年(754)から天平宝字2年(758)の間に行われた五月一日経の大掛かりな勘経作業の検討により明らかにされた(注3)。勘経は、書写の際に使用したテキストとは別のテキストによって校訂することで、経典内容をより確かなものにするために行われる作業である。この時行われた五月一日経の勘経作業の目的は、五月一日経を朱印経のテキストとするためのものであり、より正確に校訂された五月一日経と内容・構成ともに、全く同じものを作ることを目指し、朱印経は制作されたものであったとされる。さらに興味深いことに、五月一日経、朱印経ともに書写した写経生も、同一であったことが確認された(注4)。つまり、五-244 -

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