鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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2.朱印経の書体3.奈良朝写経所における大聖武の存在月一日経を書写した写経生が、それを手本として、あらたに朱印経を書写したということである。しかしながら、五月一日経と朱印経には明らかな相違があることが、今回、作品調査の機会を得て確認できた。それは各々の料紙の規格が異なっており、引かれた界線も、朱印経は五月一日経に比べ、界高は高く、界線の幅も広くなっていることである〔図4〕(表1)(注5)。それではなぜ、写し写された□作品の間に、このような変更が見られるのだろうか。さらに朱印経の書体を検討することにより考察を進めたい。これまで奈良時代後期の大字写経の書跡については、大聖武の影響を受けた力のこもった堂々とした書跡であると評価されてきた。この評価は、朱印経についてもなされている。しかしそこには、大聖武風という漠然とした類似以上のものが、今回朱印経の書体を検討した結果、認められた。〔図5〕の朱印経は中臣村屋鷹取筆「増ー阿含経巻第36」である。「阿J、「難Jの編と妾とが緊密に組み合わさる形が、大聖武と酷似していることが確認できる。また「阿」の右上がりに書かれた横画、「難」の「佳」の縦画を横画より長く書くなど一致している。また筆線の太さに相違はあるが、「願世腺」〔図6〕を比較しても、「世」の重厚な縦画、「願」の編と労との緊密性も同様にきわめてよく似ている。ここで注目したいのは、この大聖武の書体が鷹取の書写だけではなく、朱印経を書写した他の写経生にも共通してみられるということである(表3)。朱印経にみる「白」の重厚な転折、「告」の右上がりの横画、「歓Jの偏と労の組み合わせにみる緊密性などが特に大聖武と共通している。このように筆線が重厚で、緊密性の高い構築的な書体より、朱印経が五月一日経を写したものであるにもかかわらず、五月一日経とは異なる大聖武の書体によって書写されていることがわかる。ではなぜ、大聖武の書体で書写されたのであろうか。これまで大聖武は、奈良朝写経における位置づけが定かではなかった。それは、通常の奈良朝写経にくらべ、いくつかの特異な点がみられるからである。まず一行の文字数が9字から13字と少なく、文字も大きいということ。第二点は、使用されている料紙が、通称荼毘紙といわれる特殊な最高級の料紙(注6)であること。第三点は、-245 -

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