経典の内容に欠落部分が見られることである(注7)。それでは経典内容に不備があり、写経としての機能を果たしていないにもかかわらず、当時においては最高級の料紙が大聖武に使用されたのはなぜであろうか。次に大聖武の書体を検討することにより考察したい。大聖武の文字には、「大」〔図7〕の二画目、左払いの書き始めが二つに分れていることからもわかるように、二度書きされている筆線が確認できる。「功」〔図8〕では、妾「刀」の転折部分に二度書きが見られる。これまでこの「二度書き」については、「単なる墨の濃淡」とも考えられてきたが、これは明らかに筆線を太くし、形を整えるための二度書きであることがわかる。したがって、そこには忠実に大聖武のテキストであった賢愚経(注8)の文字の形を再現しようとする姿勢がうかがえる。それでは、二度書きをしてまで再現を試みた、大聖武のテキストにみられる書体とは何であったのだろうか。唐より請来された大聖武のテキストが現存していないため、大聖武の書体を通して考えてみたい。〔図9〕は、唐・長安の千福寺に制作された顔真卿筆多宝塔碑と大聖武との書体比較である。ともに同様の書体であるだけでなく、その筆線の重厚さまでが共通していることがわかる。この多宝塔碑は、天宝11年(752)に制作されていることから、大聖武にみられるその書体は、天平勝宝八歳(756)の朱印経制作時の奈良朝において、唐よりもたらされた最新の書体であったといえる。このように多宝塔碑と大聖武の書体が酷似していることから、大聖武のテキストであった賢愚経は、その書体の価値によって、奈良朝写経所に受け入れられたことが想定できるのではないだろうか(注9)。以上のように大聖武が、経典としての機能を果たし得ないものでありながら、当時においては最高級の料紙が使用されていた理由は、大聖武の書体に、最新の文字の形としての特別な価値があったことが考えられる。さらに、これまで特に言及されたことはないが、奈良朝写経所には実際に荼毘紙に書かれた大聖武だけではなく、黄麻紙に書かれたものも存在している〔図10〕(注10)。その書体が複数の写経生によって書写された写経に共通してみられるということが今回確認できたことから、これは単なる偶然ではなく、大聖武(または黄麻紙のもの)が当時、最新の書体で書かれた「書の手本」として写経所に存在した可能性がある。しかしながら、大聖武のように文字も大きく、構築的である書体は、大量の経典を写す一切経制作には適さない書体である。しかも朱印経の制作は、「急ぐ」性格の写経事業であったとみられている(注11)。したがって、早く制作しなければならない朱印経に、手本である五月一日経とは異なる、あえて書くことに手間のかかる構築的-246 -
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