鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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な書体が選ばれたことから、この朱印経にみられる大聖武の書体は、「意識的に」採用されたものであったといえるのではないだろうか。おわりに最後にその書体がなぜ朱印経に採用されたのか、その理由を想定したい。朱印経は、写経としてはめずらしく、その奥書に写経制作のすべての工程の記録がT寧に記述されている。特に写経のなかでも、テキストの勘経をした担当までが記されている点が特異であり、またテキストとされた五月一日経が、当時、国家的事業として制作された画期的一切経であったことから、朱印経の権威性はますます大きいことが指摘されている。五月一日経が奈良朝において制作されたことは、天平勝宝4年(754)の大仏開眼会の直前に、新羅王子金泰廉の一行が来日した際に、東大寺に備えられた五月一日経の存在が知らされ、また唐に対しては、天平勝宝四年に派遣された遣唐使(以下、勝宝度の遣唐使とする)により、報告された可能性が指摘されている(注12)。ここでは五月一日経が、唐において編慕された最新の経典目録を基準とした一切経であることが重要であった。天平期の仏教政策は仏教を共有する東アジア諸国に対して、仏教による国家理念の構築を示すという対外的意義があったため、最新の経典目録によりいち早く一切経の制作をするという行為が、東アジアにおいて国力を誇る極めて対外政治的な役割を担っていたからである(注13)。しかしながら、五月一日経と一連の事業であった朱印経では、五月一日経をテキストとしながらも、その書体には大きな変更が確認できた。朱印経を書き表すための書体として、あえて選ばれた大聖武のテキストは、勝宝度の遣唐使によってもたらされた請来経であると考えられ、その書体には、これまでにない新しい書体としての価値があることを想定した(注14)。また、この勝宝度の遣唐使は、五月一日経を勘経するための、新たな系統の一切経の入手という任務も担っていたとされる(注15)。遣唐使により新たに請来された経典により、五月一日経を勘経する勅命が光明皇太后より出され、それを手本とし朱印経が制作された。そこには五月一日経が制作時(天平8年(736)より『開元釈教録』を基準に制作)、東アジアにおいて最新の一切経を目指して創出されたように、朱印経制作が本格化したとされる天平勝宝八歳(756)においても、最新の一切経を制作しようとする、光明呈太后の意識があったものと思われる(注16)。これまで歴史学の立場から、総国分尼寺にふさわしい一切経として、朱印経が、総国分寺である東大寺所蔵の五月一日経と全く同じものを目指して制作されたことが指-247 -

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