注(1) 書体という言葉は、一般に楷書、行書といった字体を基礎に文字を表現する様式、特徴などが(8) 注(7)参照。大聖武のテキストが、一行17字詰の通常の写経ではなく、2行で24字の大字写経で(9) 拙稿「奈良朝における大聖武の受容意図」九朴I藝術学会誌『デアルテj第17号西日本文化協摘されてきた。しかし朱印経は、五月一日経の経典を採用しつつも、書体においてはそれを採用せず、あえて大聖武の書体を用いて制作されていた。それはその書体が、当時の唐代における最新のものであったことから、総国分尼寺の一切経を書き表すにふさわしい書体と認識されたからではないだろうか。以上のことから、本研究において、朱印経にみられる大聖武の書体は、東アジアの政治的、文化的位置を意識していた光明皇太后により、意図的に採用された書体であったことを提示したい(注17)。一貰して形成されたものを指し、書の様式的特徴については通常「書風Jという言葉をもちいるが、本研究ではあえて「文字の形」に着目し考察するため、個性の表現、書きぶり等を含む「書風」ではなく、文字の形という意味において「書体」という言葉をもちいる。(2) 山下有美「嶋院における勘経と写経一国家的写経機構の再把握ー」「正倉院文書研究』7吉川弘文館,2001年(3) 注(2)参照。(4) 注(2)参照。朱印経制作に携わった写経生は25人確認されており、そのほとんどが互月一日経の制作された東大寺写経所に従事した写経生であることが指摘されている。(5) 朱印経の料紙の規格が五月一日経より、縦約1.0cm、幅約10cm、大きいことが確認できる。また朱印経の界線の規格も界高が約3.5cm、界幅が約0.5cm、五月一日経にくらべ大きいことがわかる。(6) 宍倉佐敏「科学の眼で見た奈良朝古経料紙」『水茎』古筆学研究所,2000年料紙は扁平なマユミの繊維だけで漉かれ、もともと表面が平らな紙にさらに打紙加工を行い、より一層表面を平滑にし、加えて胡粉を塗布して筆記性を一段と改善した最高級の紙であるとされる。(7)樋口秀雄「大字写経の系譜ー大聖武論ー」東京国立博物館美術誌『ミュージアムI第113号,1960年白鶴美術館所蔵の大聖武に、2行(24字分)の脱落があることが指摘されている。あったことがわかる。会,2001年(10) 白鶴美術館所蔵「手鑑J大聖武8行のうち、後3行の料紙が黄麻紙である。(11) 注(2)参照。朱印経制作の前段階である五月一日経の勘経作業が、本来行われるべき嶋院写経所の完成を待たずして、四大寺に分配して作業が進められていたことが、理由としてあげられている。(12)上川通夫「一切経と古代の仏教」『愛媛県立大学文学部論集』日本文化学科絹第1号第47号,1998年(13) 注(12)参照。(14) 注(9)参照。-248 -
元のページ ../index.html#257