鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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動の経験、宣伝扇動について意見の相違があり、統一後も激しい論争が繰り広げられた。旧造型を「アトリエ・マルキスト」、AR美術部を「漫画、ポスター主義者」と一方が一方を蔑んだ。ナップ系からみると造型はブルジョワ美術からプロレタリア美術に加わった者たちでしかなかった。一本化したはずがすでに内部で分裂しているのであった。大月が、漫圃、ポスター、カット、組合旗の意匠、集会の装飾等の制作は、最も実践的な『武器の芸術』であると主張すると、岡本は、その考えは社会的公用性を第一義とする誤った考え方であるとし、「我々の絵画は単に当面の政治的スローガンを掲げて、大衆に、アジテーションし、自由を強要し、闘争に無理に動員するのではなく、それらのことは、労働者大衆の自己の力の日常的経験と結びついた時に於いてのみ生きて来る(注5)」と考えの違いを上張した。もともと彼らはセザンヌの影響を受け、さらにはキュビスムも通過しつつここに至った。矢部は自分たち「造型」はヨーロッパの新しい美術を吸収してきたが、大月にはそれがないと語った(注6)。いっぽう大月は、ネオ・リアリズムを称号しマルクス的美術家を任ずる造型の人々は、本質的には労働者の闘争には何等関心をもたない客観主義者で、従来の絵画の延長で制作しているに過ぎず、階級的にはブルジョワ層にあると断じた。続いて第1回展出品作を分析し『戦旗』1929年1月号に発表する。大月源二「プロレタリア美術大展覧會を評す」である。この論で大月は「ブルジョア美術に対する批判によって、新しきく形式>を追究しつつあるもの」の例として造型出身の吉原善彦の静物画をあげているが、印象派や後期印象派的な表現はブルジョア的だという批判を述べた。次に「形式の追究から、現実のプロレタリア的内容の表現へと向いつつあるもの」の例も造型出身の作を例に上げ、労働、生活、党活動にモチーフが絞られていることは評価するが、階級性が強調されておらず、技巧的な面でブルジョア的であると指摘する。岡本唐貴の作品に至っては「セザンニズム岡本の第1回展評もまた、ナップ的傾向と造型的傾向の対比で見ざるを得ないとし、会場全体に明るい要素の「造型」と暗い要素の「ナップ系]とが併置されていると述べた(注7)。岡本は大月の出品作「デモ素描」〔図1〕を造型出身の山上嘉吉「ビラ」と比較し、山上が「捉えられた形象の正確な、或いはより現実的な形成の上に立つ」に対して、大月は「挿絵的な通俗性」と「カーぱいの狂信性の中に、作家の情緒的な心理的形象への接近の餘融の不足を示している」と厳しく批判する。岡本の論では、旧ナップ系の画家は批判の対象となり、「社会主義リアリズムの様式は、大衆的な様式である。社会主義リアリストは、複雑で内容の深刻なイデオロギー的企画を、もっ静物主義の残滓」だと記した。-17 -

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