鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
263/598

1964年第8期)鈎窯は汝窯、耀州窯と同様に宋代に始まるとしている。?馬先銘は伝世のとして、研究がなされてきた。故宮博物院などに伝世する釣窯には番号のついていないものもあるが、本論では官窯タイプの伝世釣窯というときには番号のついた植木鉢などをさすものとする。この官窯タイプの伝世の鉤窯姿器に合致する陶片が河南省磨州市(かつては馬県とよばれた)鈎台窯から1973年に発掘され、1975年に趙青雲らによって報告書が出された(趙青雲「河南省馬県鈎台窯的発掘」『文物』1975年第6期)。この報告書では宮廷に伝わる伝世品を北宋とする結論であったため、中国国内では、それまでのさまざまな時代考察が、北宋代に収敏してしまった。とくに、趙青雲、?馬先銘、李輝柄、など中国古陶磁学会の権威者たちが北宋説を強く支持したため、1990年代までは伝世品の年代に関する問題は解決済みとして、それ以上議論されなくなってしまったのである。つまり北宋の官鈎窯の存在を中国の陶磁学者は主張し、認められたのである。一方、イギリスのM.メドレーなど中国の国外では、この鈎窯の発掘報告がなされたあとでも、伝世品の様式的研究から金時代、元時代あるいは明時代初めとする意見が続いていた。長谷部楽爾氏はこの報告書にある磁1-1,1窯系の共伴物から鉤台窯出土の鉤窯姿器が北宋であるとする説を疑問視されていた。またアメリカのハーバード大学付属博物館のR.モーリーは官窯タイプの鉤窯磁器の器型から元末明初説を提示し、イギリスのバーリン・モーガンは同じく、器型を根拠として、洪武年間という説を出していた。鉤窯の創始年代については現在でも中国古陶磁学会では定説はなく、北京大学の秦大樹氏は最近、萬州市神屋鎮の鉤窯の創始年代を北宋末期としている。(秦大樹「鉤窯始焼年代考」『華夏考古』2004年第2期)宋代説はも馬先銘によって主張され(?馬先銘「河南省宋代臨汝県遺址調査」『文物』の官窯タイプの鉤窯磁器に関しても清代の『南窯筆記』、『景徳鎮陶録』など多くの文献での記述にある「鈎窯は北宋である」という考え方を踏襲して、制作年代を北宋であるとしていた。この宋代説は1975年の馬県鉤台窯発掘によって、「実証」されることになる。すなわち、報告書によれば、馬県城内北門の内側の八卦洞で伝世宮廷姿器と一致するものが発掘されたのである。伝世品の鈎窯磁器の窯址が明らかとなったことから、次にこれらの制作年代が問題となる。宮廷用の装飾用姿器という特殊な製品が宋代の官窯で作られたという。つまり鉤官-254 -

元のページ  ../index.html#263

このブックを見る