鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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窯が北宋に存在したと趙青雲は報告書で主張している。徽宗の崇寧4年(1105年)11月の「花石綱」と呼ばれる珍異な花木奇石を杭州や蘇州の応奉局の命じてあつめたという記録から、奇石盆栽をつくるために馬県の城内に官窯を設置して花盆、鉢、などの制作を命じたと推測している。これに対して、李民挙は文献から花石網は宣和3年(1221年)から宣和7年(1225年)の間であるとし、この短期間で官窯としての鈎窯姿器生産は困難であると考えている(李民挙「陳設類鉤窯姿器年代考辮ー兼論鈎台窯的年代問題」『考古学研究三』北京大学考古系編,科学出版社,1997年)。また同論考で、花石網は奇花異石に限ったものであると指摘し、馬県の宋代の文献には奇花異石のことが詳しく述べられているが、花盆についてはまった<触れられていないという。もし、馬県で花盆が制作されたなら当然、文献で触れられるはずである。従って、北宋代の花盆の制作発注は北宋説を唱える趙青雲の想像に過ぎないとしている。これまで、鉤窯は唐代の花釉姿から発展したという指摘がしばしばなされてきた。しかしながら、唐起源説に対して、劉涛の研究では唐鈎すなわち、唐代の花釉姿と鉤窯とは必然的関係は見られないという(劉涛「鉤窯姿器源流及其年代」『文物」2002年第2期)。確かに視覚的な面からは類似性が認められるが、唐代の花釉姿から発展して連続的に鈎窯に至る証拠はなく、鉤窯は青査から発展したとするほうが、技法的にもまた発掘からも支持されるのである。鈎窯を生産した主要な窯の位置は唐代の花釉姿を焼成した魯山段店窯からは距離的に近い点は確かであり、また、最近、馬州市の鈎台窯の発掘で、唐代の花釉姿が出土し注目されている。しかしながら、現時点では直接の関連性は見出せない。伝世鉤窯磁器の窯址が発見された河南省馬州市鉤台窯では近年発掘がおこなわれた。唐代の花釉姿に始まり、宋代も陶磁器生産が盛んとなっていたが、金代には下火となり、元時代、明時代には鉤窯が焼成され、清末民国初年まで焼成が続いていたことがわかった(李小頻「昌川市城改造中対鉤台窯址的幾点新発見」『中国古陶姿研究5集』,1999年)。典型的な鉤窯製品を焼成した鈎窯の中心の窯は元時代の神屋鎮である。出土品及び地理的な状況から神厖鎮窯の製品は宋時代ないし金時代の汝窯地域の青磁から分岐していったものと考えられている。つまり、魯山段店窯や宝豊県清涼寺窯から発展していったものが宋時代からはじまる神屋鎮の鉤窯である。ここの製品は支釘によって焼成されているものが大半である。また神屋鎮窯では鉤窯タイプの青磁が認められる。-255 -

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