汝窯と鉤窯の青姿の近似性については、明・清時代の文献には鈎窯と汝窯の製品は分けにくいという記述がある。汝窯から鉤窯への展開が伺われる。実際、神厖鎖窯の初期の鉤窯製品は70パーセントが青磁である。釉色は青緑が基本色であることが考古学的発掘からわかる。河南省考古研究所に保管されている神屋鎮窯の製品を観察すると、宝豊県清涼寺窯からの東溝窯へ、そして神厖鎮窯へと連なる様子がわかる。東溝窯では汝窯タイプのものと鉤窯タイプのものを同時に焼成している。これらの窯同士は直線距離で30キロメートルから40キロメートルしか離れていない。従って、地理的な面からも、焼成技術や製品の影響を受けたであろうことが、推測される。臨汝窯が北宋末の「靖康の変」(1126年)で衰退したあとに起こったとする陳万里説が現在また有力となってきている。北宋末期に臨汝窯が地理的に近い東溝窯や神后鎮窯へ影響を及ぼした可能性もあり、また清涼寺窯では臨汝窯に類似した耀州窯系の製品を焼成していることからも、北宋末に釣窯への技術移転がおこなわれた青姿の系譜が考えられる。鉤窯の名称のもとは鉤州が金代の大定2年(1184年)におかれたことに由来するという説もあり、また鉤窯は北宋の汝窯に続いて起こったとする北宋末から金代創始説の考えが主流であった(陳万里1951年)。但し、鉤朴lが設置される以前から、窯としては活動していたかもしれない。つまり、鈎窯という名称は宋代の文献上には存在しないが、花釉姿など陶磁器の生産は唐代から継続して行われていたことが近年の発掘調査から明らかであり、北宋に鈎窯製品の焼成が始まっていた可能性もある。これらは馬県や臨汝県からの窯址の調査に基づく説である。(関松房「金代姿器和鉤窯的問題」『文物参考資料』1958年第2期)鈎窯の創始が金代であるとする説に対し、出土遺物は元時代の墓葬や窟蔵に集中していることから元代説もある。鈎台窯は発掘報告書によれば、東西約1100メートル、南北約250メートル総面積30万平方メートルに広がり、堆積層は1メートル前後で厚いところで2メートルあるという。そのうち14区画を調査し、発掘面積700平方メートルに達し、窯基、工房、灰坑、の遺跡が整理された。窯道具、廃棄された器物、磁士、釉薬などがおもな発掘品である。出土陶片については、鉤窯姿、黒釉査、赤絵、青白磁、汝窯系青磁などが発-256 -
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