見された。さらに萬県机村窯のものと同類型の白地鉄絵なども出土している。窯の区域ごとに特徴のある製品を焼成していたことが判明した。鄭南公路より東が鉤窯姿区、西側の馬州製薬工場とその前庭が天目、工場の後ろが八卦洞付近で、ここが汝窯系のものと青白磁であるという。鉤台窯では11基の窯のうち、鉤窯が2基、天目窯が4基、汝窯系が5基という調査がなされている。宮廷用の鉤窯姿を焼成したのは一区画のみであった。ここから集中して出土しているが、素焼きのものも出土。器型は花盆、奮、尊形瓶、鼓釘洗、など数種類。きわめて限定された器種である。出土坑からは伝世品宮廷用の鉤窯査器のものだけが集中していた。この出土の仕方は注目に値する。つまり、これは景徳鎮での珠山の明代の官窯磁器の廃棄物の出土の仕方に似ているのである。宮廷に収められなかったものは民間への流出をふせぐため、すべて意図的に破壊し、集中的に廃棄坑に捨てられた。この廃棄坑からは碗や盤などの日常用の鉤窯製品は一切出土しなかった。この点は重要であると思われる。つまり官窯のスタイルをとっているからである。廃棄坑は地下2メートルで、窯炉から20メートルはなれていた。1975年の発堀報告では「宣和元宝」の通貨の鋳型が発見されたという。胎土の分析から鉤窯の胎土と同一であることが判明した。「宣和」は徽宗の年号であり、報告者は宮廷用鈎窯姿器の生産を12世紀初頭の徽宗の時代(1101年ー1125年)とした。これが、官窯タイプの鉤窯の編年の最大の根拠となっている。しかしながら、この「宣和元宝」の痘は当時流通していた「宣和元宝」とは書体も違う。また文字の配置の順番も違っている。流通している「宣和元宝」の文字は右まわりであるが、陶箆の「宣和元宝」は上下右左の順となっているのである。さらに、馬県で貨幣を鋳造した記録がまったくないことから、この出土した「宣和元宝」の鋳型の信憑性に疑問がでている。すくなくとも、公的な「宣和元宝」ではなく、私的な後世の鋳造の可能性のある落ということができる。また「奉華」の銘のある陶片が出土したと1975年の発掘報告書にあるが、その実物資料は写真などふくめて、確認することができなかった。「奉華」とは故宮博物院に伝世する一部の汝窯の製品に見られる陰刻であるが、この銘は南宋の高宗妃の堂号であり、筆者の調査では、それ以外ではこの「奉華」という名称は見当たらなかった。報告者は北宋の宮殿の名称であるとしているが、具体的にどのような文献に基づいて-257 -
元のページ ../index.html#266