2釣窯系の形成と元代の鉤窯いるのか不明である。従来、この「奉華」銘の出土品があるという報告に惑わされてきたが、写真資料すら公表されていないので、その存在を疑う必要もある。伝世品の鉤窯と同じ陶片が出土した窯の生産規模は限定され、焼成期間も短いと考えられている。この窯の編年の考古学的な手がかりは上記のように北宋末期であるという確実なものとはすることができないであろう。これまで、この鈎台窯の発見によって、中国国内での鉤窯査器の生産は金代説、元代説がなくなり北宋説になったほどの影響力のある報告書であったが、近年のいくつかの反論によって、中国国内においても波紋が生じている。臨汝窯では1964年の調査では11箇所のうち8箇所が鉤窯遺址である。青磁は3箇所のみ。青磁から金代に鉤窯へ転換したことを示している。鶴壁集窯では元代の倣鉤窯中心である。新安県でも元代の倣鈎窯が中心であると報告されている。これまでの説では釣窯はまず神屋鎮で始まり、宋代末に馬県八卦洞に鉤窯の官窯が設置された。靖康の変(1127年)から大定2年(1162年)までは戦乱で陶磁生産は途絶えた。金代の大定年間から生産が復興し、窯址からは金代の磁州窯や耀州窯、定窯の遺品があわせて出土している。元代の鈎窯を倣鈎窯としているのは、北宋の鉤窯を前提とした考えに立つ報告書だからである。神厖鎮窯の中心的な窯である劉家門窯の発掘調査が2001年9月から2002年1月にかけて行われた(「河南省馬川市神屋鎮劉家門鉤窯遺址発掘簡報」『文物』2003年第11期)。この窯は『嘉靖鉤州志』に記載され、鉤窯の産地に関する最も早い文献である。神屈鎮窯は元豊年間(1078年ー1085年)より、活動を開始し、初期は青姿が中心であった。出土品の57パーセントが青姿で、素焼きが21パーセント、鉤窯査が13パーセントである。支釘痕のある鉤窯査で、釉色は葱翠青のものがある。北宋末期には天藍釉や月白釉、天青釉があり、紫紅斑も見られる。金代にも引き続いて、制作されるが、精緻さに欠け、質の低下が見られる。元代は生産量も増加し、青姿、鉤窯姿、のほか、白磁や黒姿なども見られる。青姿は深緑色をしている。黒釉には油滴も見られる。鈎窯の釉は流動性が極めて強くなり、針状の結晶釉が出現する。乳濁釉には表面にピンホールが密に現れている。紫紅斑が多くなる。14世紀末まで鈎窯姿の生産が続いている。元代には質的に非常に優れたものも見られる。鉤窯の生産は元代がもっとも盛んであ1950年代から1960年代河南省で窯址調査が精力的に行われた。-258 -
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