り、同時に耀州窯系の青姿や磁州窯、黒釉、白磁なども焼成している。臨汝県と馬県は接しているのできわめて影響関係が強い。また東溝窯の出土品は神屋鎮と同様に青磁と鉤窯が両方あり、注目される。宋代から元代にかけて鈎窯は神屋鎮窯から臨汝窯へひろがり、郊県窯、宝豊県窯、などへ逆流する形で青磁窯へ展開し、魯山県、新安窯、鶴壁窯、安陽窯へ鉤窯の生産が広がっていく。そして河北省の磁県窯、山西省の渾源窯へも広がる鈎窯系を形成した。鉤窯系の形成にあたっては耀州窯系と汝窯系、磁州窯系の関連のなかで考察する必要があるが、その全貌を視野にいれた研究は今後の課題である。元代の鉤窯製品の出土例は幣しく、鉤窯の生産の最盛期が元時代のフビライの至元8年(1271年)から至正28年(1368年)にあったことがわかる。特に、元の大都をはじめ元代の窟蔵からは鉤窯の陶片が大量に出士している。主な出土品は山西省大同市の金代閻徳源墓(大定30年)の出土品(1190年)(『文物」1978年第4期)山西省大同市元代?馬道真墓至元2年(1265年)(『文物』1962年第10期鈎窯姿器11点出土香炉、奮、長頚瓶、碗、盤など)、内蒙古フフホト市出土の鉤窯香炉乙酉年9月15小宋自造香炉1個至大2年(1309年)(『文物』1977年第5期)などがある。3鉤台窯と伝世鉤窯姿器鉤窯という名称は宋史、元史にはまったく見られない。また、宋代、元代の文献にも鈎窯ないし均窯という名称は見られない。考古学的発掘により、元代の鈎窯の活動が明らかになってきているが、元代の文献ではまだ鉤窯(均窯)は登場しない。明の洪武21年(1388年)に著された『格古要論』にも、景泰7年(1456年)の『格古要論』(増補版)にも鉤窯の名称は見られない。『宣徳鼎葬譜』には明の宮廷に所蔵されるものとして、「柴、汝、官、研、均、定、各窯の器皿」とあるのが、均窯(鈎窯)という名称のもっとも早い例である。この書物は明の内府に所蔵されている名窯について、述べられたもので、著されたのは宣徳3年(1428年)とする説と、実際は嘉靖年間とする説もある。『宣徳鼎弊譜』(1428年)に名窯として、登場しながら、『格古要論』(1388年、1456年)に鈎窯の名称があげられていないのは、鉤窯が明の宮廷の重要な所蔵品であるが、宋代、元代のものではなく、著作と同時代の作品という認識があったからと思われる。『格古要論』には明代の重要な古美術が記載されているのである。-259 -
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