鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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万暦年間の『遵生八箋』には均窯、均州窯についての記述がみられる。この『遵生八箋』では鉤窯の釉色について具体的に葱翠青などの表現がみられ、器の底に一、ニなどの画番号が刻まれていること、さらに器型についても盆、方瓶、炉などがあるとしている。そして、近年の新焼の鉤窯は釉色は似ているが用いるに耐えないと具体的に記述されている。近年とは嘉靖年間、万暦年間のことをさしていると思われる。その他、嘉靖、万暦ごろの『清秘蔵」にも高台裏の数字が一、二、とあることや、釉色の紅は膳脂色、青は葱翠色、紫は黒色がいいと評価している。そして、宋代の五大名窯に次ぐものとして均窯を挙げている。明末崇禎年間の『長物志』にも鉤窯の特徴について触れられている。明代には文献からは鉤窯は宋代のものいう認識はまったく見られない。しかし、清代には鉤窯は宋代のものと記述されている。そして、嘉慶20年(1815年)の『景徳鎮陶録』では「鉤窯は北宋で焼成され、鉤台から出る」とある。同様の記述は『南窯筆記』にも見られる。北宋代には鉤朴1という地名は存在しない。金代の大定24年(1164年)に鉤朴Iが置かれ、明代の万暦3年(1575年)に馬朴1となった。しかし、鉤台窯のある馬州市は唐代、宋代には陽祖県と呼ばれていたがこの陽祖県が鈎州に編入されるのは明初の洪武元年(1368年)からである。文献による考察のほか、官窯タイプの鉤窯は器型や釉色の調子などからも元末から明初にかけてのものと考えられる。伝世宮廷用の鉤窯姿器は種類が極めて限られ、その器型は元代ないし明代のものであり、宋代にはみられない。たとえば尊形の鉤窯磁器の器型は元代の漆器に見られるが、陶磁器では宣徳年製の青花磁器に類似の器型がある。擢座のある鉢は景徳鎮珠山の御器廠跡から出士した成化年間のものに似ている。明代にこの器型が龍泉窯や浙江省の金華鉄店窯等でも制作されている。施釉方法として、盤や盆の外側と内側の釉色を変えているのは、元末から明初以降の特徴と考えられる。神屋鎮での考古学的な発掘から、針状の結晶を持つ鉤窯独特の釉は元代に登場する。さらに明の宮廷内で使用された陶磁器には元代の製品は少ない。これらのことから、官窯タイプの伝世鉤窯磁器は北宋あるいは元の製品ではなく、明初のものと推定される。鈎台窯では磁州窯系の白地黒花、宋三彩、汝窯系、定窯系、鈎窯系、黒釉、青白磁などが焼成されるなかで、官窯的性格をもつ鉤窯が明初に作られた可能性がある。元代に官営の手工業が盛んになり、鉤州城内に窯が作られ、規模は大きくないが優れた製品が焼成され、明代にも引き続き、生産が行われた。永楽3年(1405年)に北京で-260-

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