とも単純率直な形象の構成の中に具体化せなければならない(注8)」と絵画の形式を重んじた発言を残している。この時点では、互いに所属したグループ別批判であり、新しい形式をつくりだそうとした「造型」と扇動とテーマを遵守した「ナップ」に再び分派し、そのまま運動は終止符を打たれるかに思われた。それでは、プロレタリア運動の理論的リーダーであった蔵原惟人はどのように見ていたのだろうか。大月作品については「そのテーマをプロレタリアの現実生活の中から求めている。これはプロレタリア美術への一つの重要な歩みよりである」と好意的な批評を寄せた。しかし「旧造型」を全否定しているわけではない。プロレタリア美術にとって、造型の「明るい健康さ」は重要であり、将来、他のグループの「レアリスム」と「プロレタリア的なテーマ」の三つのものの総合から、新しいプロレタリア美術が生まれるだろうと提案しているのだった(注9)。何が大月源二をプロレタリア美術に向かわせて行ったのか。それは小樽時代から親しみ生涯の友となった同郷の作家小林多喜二の存在を抜きにはできない。二人はともに水彩画を描くことで知り合い、以後、最後の共同作業であった小林の新聞連載小説『新女性気質』の挿絵〔図2〕を大月が描くまで、互いの自宅を訪ね、ナップ事務所で面談したりと深い交流が続いた。東京美術学校を卒業した大月は、同級生とは大きく進路を変え、当時AR部長を務めていた橋浦泰雄に会い加盟を決める。橋浦との出会いが、「告別」を描く機会を大月に与えたのである。須山計ーに「大月君はどちらかというとポスターが好きだったようで(注10)」と言われたように、長く大月は〔図3〕のようなポスターや漫画の仕事に携わっており、油絵を描くこと自体が久しぶりのことだった。労農党出身の代議士山本宣治は1929年3月5日夜、暗殺された。39歳だった。もともと生物学者であった山本は、カナダから帰国後、日本の労働者の悲惨な状況に憤り、論の統制や不法拘禁などの実体を厳しく批判して、連日講演会を開催していた。日本中を自費で移動して運動を重ねている最中、妨害にあい講演会が中断させられ、その夜、宿泊先の東京神田の旅館でテロリストに襲われ、息をひきとった。大月は知らせを受けたとき、橋浦泰雄とナップ事務所におり、直ちに山本が刺殺された旅館にかけつけた。デスマスクを鈴木賢二にとらせようと決めるが、不在の場合を案じて二人でスケッチを取ることにする。橋浦は16歳年長であるにもかかわらず、3 プロレタリア美術の記念碑「告別Jについて第1回普通選挙で当選。当時、治安維持法に反対したのは、この山本だけであり、言-18 -
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