鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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第2節アーレンス商会とビング1838-1905)は、19世紀後半のフランスでジャポニスムの動きに密接に関わった有力(Hinrich Ahrens, 1842 ? -1886)が1869年に東京・築地外国人居留地41番地で開業したは、当時のフランス人の日本陶器への関心を強く促しはしたものの、それについての情報を詳しく説明するには至らなかったようである。ジャポニスムの時代に見られた日本陶磁器に関するフランス人の趣味の変化を助長し、かつ彼らの日本陶器に関する知識向上に貢献した活動について考察する際、注目すべきものに美術商の活動がある。中でもジークフリート・ビング(SiegfriedBing, な美術商だったが、パリにいた彼の許へ日本から日本の美術工芸品を送っていたのは、アーレンス商会だった。アーレンス商会は、ドイツ人のヒンリヒ・アーレンスドイツ系の総合商社であり、明治期のドイツ系商社の中では最も成功した企業とされる(注4)。同商会による美術工芸品の海外輸出に関しては、宮島久雄の研究によって、パリのビングの許へ日本の美術品を送っていたのがアーレンス商会である可能性が高いことが既に報告されているが、その後それについての新しい研究成果は報告されていない(注5)。そこで今回筆者が調べたところ、両者の密接な関係を裏付ける証拠を確認することができた。まず横浜開港資料館に所蔵されているアーレンス商会の商業報告書には、1874年に既にアーレンス商会の横浜店がパリのビングに宛てた書簡(12月18日付)が存在する(資料1)。このことから、この時点で既に両者の間には、商業関係が成立していたことが分かる。また、フランス外務省日本関係文書に含まれる、神戸港に関する商業・市場報告(1879年8月18日付)には、アーレンス商会が日本の骨董品(curios)をフランス、イギリス、アメリカ、ドイツヘ輸出している旨が記されている(資料2)(注6)。さらにここでは、フランスについては特別に、「ビング商店(MaisonBing)」と括弧書きで明記されていることから、この報告は、当時におけるアーレンス商会のフランス向け輸出が、ビング商店にほぼ限定されていたことを示唆していると考えられる。アーレンス商会は1869年に築地で開業したとされるが、その士地の購入は、築地居留地が開設された明治3(1870)年6月3日になされた。そして、アーレンスが41番地の土地を購入した同じ日に、41番地と隣接した23番地を購入したドイツ人がおり、それはミハエル・マルティン・ベーア(MichaelMartin Baer, 1841-1904)という人物であった。アメリカ人のワイスバーグの研究によって、このベーアがパリの美術商ビ1870年代の商業関係を中心に-264 -

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