7)。(1879)年8月2日までの契約で陶器絵付薬製造師として雇われており、その契約は(1877)年5月以降もウィンクレルがアーレンス商会に勤務していたことが分かるングの義弟であり、彼がパリのビングに日本の美術工芸品を送っていた可能性が高いことが報告された。また、それを受けて日本の関係資料を丹念に調べた宮島久雄は、ベーアがアーレンス商会の共同出資者であったこと、さらに、同商会にはヤーコプ・ウィンクレル(JacobWinckler, 1851-1911)という別のドイツ人従業員がいて、むしろ彼の方が美術工芸品の輸出に大いに関わっていた可能性が高いことを報告した(注第3節アーレンス商会による陶磁器製作とその輸出ところで、アーレンス商会には、貿易業を超えて輸出工芸品の自杜生産にまで参入するという他の外資系商杜にはない特色があった。塩田力蔵によると、築地のアーレンス商会では、明治期の日本工芸界に多大な影響を与えたドイツ人のゴットフリート・ワグネルが1875年から七宝の製造に関与し始め、七宝焼の改良に努めている(注8)。またアーレンス商会は、ワグネルの他にも陶器絵付薬製造師として一人の外国人を雇っており、それがドイツ人のウィンクレルであった。東京都公文書館所蔵の『府下居住外国人明細表』によると、彼は明治9(1876)年8月3日から明治12明治10(1877)年5月に解約されている。しかし、高村光雲(1852-1934)の述懐によれば、ウィンクレル(高村光雲はベンケイと記している)は、1877年末あるいは78年の春にアーレンス商会のための仕事(彫刻の制作)を依頼するために光雲の師匠にあたる高村東雲(1826-1879)の許を訪れていることから、先の契約が切れた明治10(注9)。さらに光雲は、「ベンケイの応対は旨いもので、流暢な日本語でやっている」と証言していることから、ウィンクレルは日本語を用いて商談できる人物であったと考えられる(注10)。さらに当時の新聞には、アーレンス商会が海外輸出する陶器の買付けについて、次のような報道がある。築地41番地のハーレンス商会にては、専ら西京の陶器を買い入れて本国へ送るので、先日はベール氏が買出しにゆき又代ってウィンクル氏が買出しに参ったゆえ、西京の陶器はますます外国で評判されますだろう。(1878年5月16日の読売新聞朝刊)上記のハーレンス商会とはアーレンス商会のことであり、ベールとは当時北ドイツ連邦名誉代理領事として来日し、1870年から1880年までアーレンス商会の共同出資者と-265 -
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