みぞろきりゅうこうしょうかしヽしゃすいえいせいみきょくきよみず18)。その情報を頼りに筆者が調べたところ、確かにセルヌッシ美術館には、「アーレンス社・築地•四十一」と記された垂櫻付冠形のマークが蓋裏に入った、一対の染付して同商会に関わっていたミハエル・マルティン・ベーア(先に触れたジークフリート・ビングの義弟と同一人物)である。またウィンクルとは、ウィンクレルのことを指している(注11)。そして、1878年頃に彼らが京都の陶器を仕入れている事に関しては、さらに次のような事実がある。中ノ堂一信が翻刻した「明治前期の京都窯芸史料」によれば、1876年に京都で開業した奥村安太郎(陶工名:奥村松山)が、1877年よりアーレンス商会の求めに応じて製品を制作している旨を自ら書き記している(注12)。この奥村安太郎ば清水の幹山伝七工場から独立した陶工であるが、師の作風に反して奥村が得意としたのは古陶の写しであった(注13)。奥村は古伊万里、古薩摩を模した作品を1876年の京都博覧会へ出品して報奨を得ており、1877年からは東京呉服町の吉沢半蔵という古道具屋の求めに応じて、仁清、乾山、御菩薩、古清水を模した作品を数多く製造していた。さらに、1878年からは専ら起立工商会社の注文品を作ったが、それらの陶磁器もまた古陶を写したものであったと言う(注14)。このように、独立後の奥村が一貫して古陶の写しを製作していたことから、1877年からアーレンス商会が奥村に注文した陶磁器も同様なものであったと考えられる。また1878年には、ワグネルがこの年の1月に京都府舎密局に雇い入れられて、技師として科学工業全般に亘る指導、および陶磁器、七宝、ガラスなどの工芸技術の指導を始めている(注15)。この雇用に際しては内務省の口添えもあったが、ワグネルを京都府知事の槙村正直へ紹介したのは、他ならぬアーレンス商会のベーアであった(注16)。ワグネルは、1878年より81年まで京都に滞在し、その間に技術的および審美的な面から京焼界に新風を吹き込むことに成功した。よってベーアは、陰ながら明治京焼の刷新に貢献したと言えよう(注17)。さらに、アーレンス商会の陶磁器製作に関しては、グンヒルド・アヴィタービレが執筆した論文の注で、パリ市立セルヌッシ美術館の所蔵品の中に、底に呉須で「アーレンス」の銘を入れた染付の大花瓶が2点所蔵されていることが報告されている(注磁器の大壺が所蔵されていた〔図1-1、1-2〕。しかしながら、この作品は染付磁器の大作であり、いわゆる古陶の写しではない。また、アーレンス商会が製作に関わった陶磁器は、この他には殆ど知られておらず、今後の研究が期待される。とは言え、アーレンス商会の陶磁器製作に関わった職人については、『東京名エ鑑」(明治12年12月、東京府勧業課刊)に記されている情報から、人物を特定することが-266 -
元のページ ../index.html#275