鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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かんこずせつとうきのぷできる。『東京名エ鑑』の中には、アーレンス商会が5名の陶磁器関係の職人に作品の製作を委嘱していた旨が記されている。その内4名は陶器画エ、1名は陶器工であり、彼らの名前やその作品の特徴などは〔表1〕の通りである(注19)。先に触れた京都の奥村の例も考え合わせた上で、これらの職人たちがアーレンス商会のために陶磁器を製作した時期に着目すると、いずれの場合も明治9-11 (1876-78)年頃となっている。このことから、少なくとも1876年から78年にかけての頃に、アーレンス商会が陶磁器の製作・輸出に積極的に関与していたことはほぼ確実であろう。従って、この製作年代と先に記したマーク〔図1-2〕は、アーレンス商会が製作に関わった陶磁器を今後調査する際に、有効な手がかりと成り得る。ところで、アーレンス商会は、日本陶磁器に加えてもう一つ重要なものを海外輸出していた。それは、明治政府の役人で日本陶磁器の収集家でもあった見巻川式胤図説陶器之部』(全7巻、1876年から1879年にかけて刊行)は、石版画による陶器の図版が付いたビジュアル効果の高い書物であるとともに、第1巻から第5巻までフランス語とドイツ語の翻訳本が存在していたことが特色である。これらの特色からしてこの書物は、日本語を解しえない外国人の眼を強く意識して刊行されたと考えられるが、実際のところ『観古図説陶器之部』第3巻の冒頭で蛸川は、「我国固有の風俗を編く内外に残さんことを欲するなり」と記している(注20)。また、原書の刊行とほぼ同時期にそのフランス語訳が完成し、それらが揃って直ちに1870年代の後半に海を渡っている事実からしても、この著作は最初から海外輸出を想定して刊行された可能性が高いと考えられる(注21)。さらに、『観古図説陶器之部』は、1880年代に入って急速に当時の在日外国人の間で知られるようになった。その普及に貢献したのは、明治期の横浜において日本で最初の仏字新聞『レコー・デュ・ジャポン(L'Echodu Japan)』を発行したフランス人のセルフ・レヴィ(Cerf Levy)であった。蜆川の著作の翻訳本(フランス語)はこのレヴィの経営する印刷所で印刷されていたが、その関係もあってか、1880年の『レコー・デュ・ジャポン』紙には、東京の蛸川邸で行われていた彼の陶磁器コレクションの販売に関する広告(注22)、及び『観古図説陶器之部』の広告が掲載されていた(注23)。また、折しもこの1880年に来日を果たしたパリのビングは、この時に蛯川と面会している(注24)。日本滞在中に蛸川に師事して日本陶器の鑑定法を学んだ米国第4節姫川式胤著『観古図説陶器之部』の海外輸出(1835-1882)が著した日本陶器に関する研究書、『観古図説陶器之部』である。『観古1こながわのりたね(ママ)-267 -

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