鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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人モースの証言によれば、『観古図説陶器之部』の第2・3・4・5巻に図版で掲載されていた日本陶器の実物は、モースが初来日する1877年6月以前に既にヨーロッパヘ運ばれており、モースはそれらの陶器をビングが所持していることを1883年にパリで実見している(注25)。従って、それら蛯川の陶器をビングの許へ運んだのも、恐らくアーレンス商会であったと考えられる。他方、蛸川はセーヴル陶磁器博物館へも自身の陶器を寄贈している。それは、当時横浜フランス領事であったアンリ・ピエレ(HenriPierret)を介して、セーヴルヘ送られていた(注26)。そして、1880年代以降に『観古図説陶器之部』は、フランスのジャポニザン(日本美術愛好家)の間でも知られるようになり、19世紀末には日本美術に関する深い知識を渇望するフランスの主要な収集家、あるいは作陶家の殆どによって、日本陶器の貴重な参考書として活用された(注27)。その普及の具体的なきっかけは、1883年にルイ・ゴンス監修によって刊行された『日本美術』所収の「陶磁器」の章(ビング執筆)、および翌1884年にフランス装飾芸術中央連合の主催で開催された「陶磁器と木エ(建築用)」を対象とした展覧会の一環で行われたフィリップ・ビュルティ(Phillipe Burty, 1830-1890)の講演「日本の陶磁器」であった。そして、ビュルティは『観古図説陶器之部』をビングから入手していたため、当時のフランスにおいて、この著作にいち早く注目し、その重要性を最もよく理解していたのは、他ならぬビングであったことは確実である。おわりにこれまで見てきた状況証拠からは、アーレンス商会が日本陶磁器の製作・輸出にカを入れていた時期と、同商会が海外輸出した『観古図説陶器之部』が刊行・翻訳・輸出された時期が全く一致するという事実を確認することができる。そしてこの事実からは、1880年代以降にフランスで顕著となる日本陶器のニーズに先駆けて、『観古図説陶器之部』および日本陶磁器の海外輸出を手がけたアーレンス商会は、西洋市場の動向を充分に理解・予測し得るビングと共同してそのニーズを作った可能性が高い、と考えられる。以上のようなことからアーレンス商会は、19世紀後半のフランスにおける日本陶器の受容を把握する上で、注目に値する交易活動を行なっていたことが理解される。そういう意味では、アーレンス商会が輸出していた日本陶磁器の実態についての詳細な調査、および同商会が『観古図説陶器之部』を海外輸出するに至るまでの経緯の解明は、極めて重要な研究課題である。これまで解明されているアーレンス商会の活動は-268 -

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