1981年、31-82頁。和美翻訳『ナセル•D·ハリリコレクション:海を渡った日本の美術』第1巻論文篇、同朋舎年3ヶ月間ほぼ毎日掲載された(但し、1881年6月だけは、7回のみの掲載)。Boston, Boston Museum of Fine Arts, February 1913. Documents sur le Japon du Minis紀reetranger de la France. 17世紀に仁清によって作られたことを示す蛯川式胤の鑑定書が付いた香合が含まれている。公し、後に京都の清水に移って五条窯の絵付職人となっている。幹山伝七の生まれは愛知県の瀬戸であるが、彦根を経て京都に至る両者の陶エとしての経歴は、非常に似通っている。しかし、1872年から「幹山伝七」を名乗り、ワグネルの指導を受けた後は主に洋食器の製作を行なって、帝室や宮内省に食器を数多く納めた幹山に対して、奥村が得意としていたのは古陶の写しであった。(14) 奥村安太郎については、次の資料を参考にした。中ノ堂一信翻刻「明治前期の京都窯芸史料」『資料館紀要』第9号、京都府立総合資料館、(15) 舎密局(現在の京都大学の前身)は、1870年2月に化学工芸の実験を意図してつくられた試験場である。明治2年3月に天呈が東幸して江戸城入りし、首都が東京になった後の京都では、人口が減少して商工業も著しく衰えるようになっていた。そんな状態にあった京都を美術工芸によって活性化しようと勧業政策を進めた京都府が、政府の補助を得て創立したのが舎密局であったから、ワグネルの責任も大きかったと考えられる。(16) グンビルド・アヴィタービレ「ゴットフリート・ワグネル」オリバー・インピー他執筆、本田出版、1995年、99-123頁。塩田力蔵「ドクトル・ワグネル氏の事業Jr陶磁工芸の研究』アルス社、1927年、320-417頁。(17) ワグネルを紹介したのがベーアだったことからは、ベーアが当時の京都府あるいは明治政府の首脳陣と親しくしていたか、あるいは当時の京都の陶磁器業界と浅からぬ関係にあったことが推測される。また、アーレンス商会の業務方針に関して、ベーアが民間ではなく政府との商売を推進すべきであるという考えを持っていたことからは、ワグネルを京都の舎密局へ紹介した時にベーアは、陶磁器をベースとした京都府との繋がりを目論んでいたのかもしれない。(18) グンヒルド・アヴィタービレ、前掲論文。(19) 東京府勧業課『東京名エ鑑』、明治12年12月。(20) 蛙川式胤『観古図説陶器之部』第3巻、アーレンス商会、1877年。(21) 大英博物館学芸員のフランクスが、1876年から1877年にかけての間にすでに「観古図説陶器之部』(原書第1• 2 • 3巻、仏語訳第1• 2巻)を入手していた事実を鑑みると、この書物がフランスに入り始めた時期もほぼ同じ頃と推測されうる。(23) r観古図説陶器之部』の広告は、1880年1月5日から3月22日までの約4ヶ月間毎日掲載された。(24) S. Bing, "La Ceramique", in Louis Gonse, L'Artjaponais, Paris, A. Quantin, 1883, pp. 239-334. 侶5)E. S. Morse, "Ninagawa's Types of Japanese Pottery", Museum of Fine Arts Bulletin, vol.11, no.61, 侶6)Fonds Correspondance consulaire et commerciale 1873-1901, Yokohama Vol. 2 (1870-1901) dans 罰パリにあるデヌリ美術館に所蔵されている、劇作家アドルフ・デヌリのコレクション中にも、Cf. E. Deshayes, Petits guide illustre au Musee d'Ennery, Paris, Ernest Leroux, 1908. (;22) 東京の蛾川邸で行われた古陶磁販売の広告は、1880年3月22日から1881年6月末日までの約1-270 -
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