鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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後輩の大月に最も顔だちの良く見える場所を譲って、自分は背後で制作した(注11)。このとき描いた大月の死顔絵には、山本がテロリストを追って階段から転落したときの傷も生々しく描き込まれている〔図4〕。翌日の告別式では、柩は「黒い布で覆われて」通夜の会場を出た。告別会場は、本郷三丁目の市電交差点からお茶の水駅の方面へ向かった仏教青年会館である。柩をかつぐには背の高さを揃えなければならないため、労農党府会議員の奥村甚之助のほか左右6人で担うことになり、途中交替しながら行進した。中折帽の長身の深刻な表情は「花やしき」の山宣の義弟であると記録されるように、画面に登場する人物はほぼ特定できる(注12)。遺体を前にコンテで素描し、翌日は告別式に参加するという悲痛な体験を通じて、25歳の大月の心に何が生まれたのか。死顔のスケッチと葬列の場面をもとに大月は第2回プロレタリア美術展に出品する「告別」〔図5〕制作にとりかかった。る高揚と内外に大きな話題を巻き起こした。「告別」について、ここに大月と対立していた矢部友衛の有名な批評がある。「率直に云うと、この作品は学校のアカデミック風から一歩もでていない、そしてそればかりかこの上なくペシミスティックなセンチメンタルさえも画面を覆っている。学校風であるということは氏も云っていたようであるが、それが故に画面全体は硬直してマンネリズムが遠慮なしにでている。あれだけ大勢ならべられた顔がどれも類形的で、その上同一色調である。全体の色調から云っても、たとえばビールビンのカケ目にあてて見たように黄赤色になって生々しい点が少しもない(注13)」大月は制作中、住んでいたアパートを家賃滞納で追い出されている。やや描き込みが浅い印象を受けるのはそのせいもあろう。しかしながら俯鰍した群像表現の構図は、山宣の柩をクローズアップし、偉大なリーダーを失った悲しみを象徴するためと受けとれる。同系色でまとめられた茶系の色調も高い両格を示し、この酷評は意外に思われる。いっぽう矢部友衛は、この第2同プロ展に大月と同じく山本宜治の葬列をモチーフにした300号の「労働葬(本郷赤門通過)」〔図6〕を描き出品している。大月と矢部はそれぞれ「山宣葬」の構図を着想するため、参考にしたと思われる写真資料が2点ある。それは、1929年の『戦旗』に掲載されており、大月が写真(1)〔図7〕を矢部が写真(2)〔図8〕をそれぞれ参考にしているのではないだろうか。写真全体をすべて使用しているのではないが、部分的な人物の配置はほぽ同じといって良いだろう。矢部の作品では、引用にあるように山宣の柩は黒い布で覆われていたものを、あえ第2回プロ展は山本の死の同年12月、東京府美術館で開催され、第1回展を上まわ_ 19 -

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