年代1867 ・ヒンリヒ・アーレンス来日(横浜着)。1868 ・ヒンリヒ・アーレンスがギュッチュウ商会に勤務(約1年余)。1869 1870 の名誉代理領事(のち名誉領事)に任命される。1871 1872 • 4月3日、銀座の大火により、築地居留地が大被害を被る。・居留地名鑑に、セルフ・レヴィの名が掲載される。1873 ・アーレンス商会が横浜店を開設。・ベーアが一時帰国。・築地のアーレンス商会に陶器絵付師として、ヤコブ・ウインクレルが雇用される。※この年のアーレンス商会商業書簡の中に、横浜店からパりのビングの許へ宛てた1874 ものが存在する。1875 める。(東京・亀戸村に仮工場あり、翌年に東京・小石川の御殿坂へ工場移転)1876 .雖川式胤著「観古図説陶器之部」の刊行開始。1877 •この年にベーアが再び日本にきたとされる(~1881年まで日本に在留)。・京都の奥村安太郎(奥村松山)が、アーレンス商会の求めに応じて陶磁器を焼成。• 1月、ベーアの紹介で、ワグネルが京都府の舎密局に雇い入れられ、技師として築地1878 工芸技術の指導にあたる(■1881年まで京都に在留)。1879 式胤の古陶磁販売の広告が掲載される。1880 ・ビングが初来日。・アーレンス商会が神戸店を開設。・ベーアがベーア商会を開業するが、1年で営業停止。• 1月、高田慎蔵がアーレンスからの出資援助を受けて高田商会を開業、同時にロンドンヘ支店を開く。1881 ・ジークフリート・ビングの弟、オーギュスト・ビングが来日。•この年の末にビングがフランスヘ戻る。1882 1883 • 4月、オーギュスト・ビングが来日。4月23日に横浜からフランスヘ帰国。1884 ・パリで会社組織のビング商会が紐織され、同商会の従業員であるデュビュッフェ夫妻が来日する。・ウインクレルがアーレンス商会から独立し、横浜居留地245番地でウインクレル1885 商会を開業(以後、数年間美術商として活動)。・パリのビング商会の支店が横浜に開店(居留地87番地)。• 10月18日、ヒンリヒ・アーレンスがコレラのため急逝(享年44歳)。・パリのビング商会の支店が神戸に開店(居留地20-B番地)。1886 1887 ・オーギュスト・ビング夫妻が来日。・ビング商会横浜店が大規模オフィスを構えて、多くの日本人を雇う。1888 ・ジークフリート・ビングが、自らの日本陶磁器コレクションを、フランス国立高等工芸学校へ寄贈。1894 ・ウインクレル商会がパリの美術工芸品展へ出品する。(その際、商会のパリでの美術工芸事業の代表はビングであった。)1895 ・ウインクレルがハンブルクヘ帰国。・ビングがパリの店を改造し、その店を「アール・ヌーヴォー」と名づける。1904 ・ベーアがパリで逝去。1905 ・ジークフリート・ビングが逝去。• 2月20日(明治2年1月10日)、日本国独逸北部連邦修好通商航海条約が締結。・東京の築地居留地41番地にてアーレンス商会が開業。• 5月(明治3年4月)、ミハエル・マルティン・ベアがドイツ(北ドイツ連邦)• 6月、アーレンスが築地居留地41番地、ベーアが同23番地を購入。• 1月(明治3年12月)、高田慎蔵(当時18歳)がアーレンス商会に雇われる。・パリでジークフリート・ビングが極東からの輸入品を販売するために店を構える。• 3月、ジョルジュ・ブスケが来日(■1876年まで日本に在留)。• 3月、ゴットフリート・ワグネルが、築地のアーレンス商会で七宝焼の改良に努• 5月、ヘーアとウインクレルが、海外輸出のために京都で陶器を大量に仕入れる。・ウインクレルが築地から横浜へ移る。※この年のフランス外務省資料の中に、アーレンス商会がパリのビングの店へ日本の骨董品を輸出していること、また逆に、ビングの店の従業員がフランス輸出向けの骨董品の買付のために来日している、などの報告が見られる。•仏字新聞「レコー・デュ・ジャポン」に、「観古図説陶器之部」の広告と、見巻川• 4月、ドイツ領事館閉鎖。アーレンス商会に関わる活動・出来事表2アーレンス商会の活動一覧同商会の工芸品製作七宝陶磁器漆器備考築地↑ アーレンスとベーアの不和築地はベーアが、横浜・神戸・ロンドン横浜はアーレンスが支配。↓ -273 -
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