と天衣がつながらないなど、整合性にも欠け、この不合理な服制が法隆寺壁画と共通することこそ、本像が絵画を元にして制作されたことを物語る。円満寺は、有田川流域に位置し、寺伝には古来密教寺院であったと伝え、寺域からは奈良時代の瓦も出土している。檜の一木から成り、肩先から、冠爺曾、天衣、環路まですべて本体から彫出し、直立してほとんど動きを表さず、左右相称に衣や衣紋を処理するところなど、多田寺同様古様な表現が認められる〔図3〕。また、中央から蕨手唐草をのばし、その下に連珠繋ぎの垂飾を表す緻密な胸飾の構成は、盛唐様式を反映し、東大寺法華堂不空罪索観音像にも共通するもので、8世紀半ばの造像と考えられる。地髪部を線状に杭き上げ、天冠台を2条の線であらわす表現は、薬師寺金堂三尊像の脇侍につながるとされ、一層の古様さを備える(注4)。本像は、特に装身具の形式などに中央作例との共通性がみられるが、体躯に比してやや大振りな頭部にあらわされた顔貌表現や、三道をあらわさない点など、独自の作風や解釈が感じられる。以上のように、両像とも服制などその形に中央様式との共通性が認められ、多田寺像については特に絵画との共通性が想定される。しかし作風はそれぞれに異なる独特な様相を呈しており、中央と同様の「型」を利用しつつもそれぞれの解釈によって、制作がなされたと考えられる。このように、「型」をもとにした造像については、平安時代初期に制作された法華寺十一面観音像等について指摘されている(注5)。煩雑な衣紋表現、また、鋭角的な天衣表現など、主として着衣表現から、「型」たる絵画との共通性が認められている。しかし二次元のものを三次元に表す過程において生ずる不自然さは微塵もなく、その彫刻としての完成度の高さは言うまでもない。いずれも当代一流のエ人の手によって制作されたことを改めて指摘する必要もあるまい。これらに比して、形において中央作例との共通性を有する一方、一見して独特の作風を示す多田寺像・円溝寺像が提示することは何か。形は絵画などを「型」として受容しつつも、実際の造形においてその「変容」がなされたということではないか。「型」の受容とその変容については、『霊異記』等の説話集に収められている仏教説話の成立と展開が同様の様相を呈している。本論では、特に観音説話に着目し、論をすすめていくこととしたい。-275 -
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