第12縁など、他の観音関連説話にもみられ、信者の帰依と本尊の功徳の両者を説く類2 説話における「型」とその変容9世紀初頭、薬師寺僧景戒によって編纂された『日本国現報善悪霊異記』(注6)は、当時の畿内周縁の観音信仰と造像の有り様を伝えている。特に若狭、紀伊は収録される説話が多く、信仰の盛んな様子が窺われ、そのような土地に数少ない天平仏が伝来することも首肯される。説話は、経典の説く内容と密接に関わっており、経典の功徳のこの世での実現を示す役割を持つとされる(注7)。そうした経典と説話の関係は、『霊異記』の観音説話にも認められ、大安寺の僧・弁宗が、長谷寺の十一面観音に祈願し、自らの借財を返済できたという内容の下巻第3縁「沙門十一面観音の像に憑願ひて現報を得る縁」等で、指摘されている(注8)。上巻第17縁「兵の災いに遭ひ観音菩薩の像を信敬ひて現報を得る縁」は、伊予の国越智郡の越智直が、百済郡の援軍として派遣され唐軍の捕虜となったものの、観音像に誓願をたてて祈念した功徳により、無事日本に帰り着いたという内容である。最後に「丁蘭の木母」のくだりがあり(注9)、これについては十一面経の注釈書である『十一面神呪心経義疏』(注10)からの引用が指摘される。中国における経疏の作成は、経典の内容を説明する講説と関係があるとされるが、その中で、説話は経典の例証として引用される場合がある。なかでもこの「丁蘭の木母」の説話は、「観音の力」と「信心の深さ」の関係性を強調したものであり、きわめて効果的な例証といえる(注11)。このように観音の力を引き出すのは信心の深さであるという関係は、下巻第3縁や型的な表現として、様々な観音を本尊とする場合に対応可能なものである。こうしたことから、『霊異記』の説話が、様々な尊像を本尊とした実際の法会で使用されていたことを示唆すると考えられる(注12)。さて、このように説話が経典の具体的な功徳の例証として語られる役割を担っていたとするとき、それが最も効果的に機能した場として想定されるのは、実際の尊像を前にした法会の場であることは、確かだろう。『霊異記』を読み解くと、8世紀、在地で頻繁に法会が催されていた様子が窺われるが、そうした法会の場では、唱導僧と呼ばれる僧侶によって、唱導が行われていたようである。唱導とは、『梁商僧伝』によれば(注13)、仏法の真理について経典に説かれる内容を、因縁を交え比喩引用しながら、人々にわかりやすく口頭で語り聞かせることであったとされ、これが日本においても杜会に浸透していったことは、『続日本紀』の罪-276 -
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