鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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福の因果を説く僧尼を取り締まるよう奏上している記事や、国々を回る行基の講説を、人々が争って聴いたという記事から知ることができる(注14)。『霊異記』と唱導との関係性は、『霊異記』所収の説話に、中巻第8縁と中巻第12縁のように、同様の主題を、異なる場所で語るなどの類話が存在することからも察せられる。そうした話が口づてに繋がっていくのには限界があり、その背後に職業的な語り手集団の存在(注15)、またそうした立場の「伝播する者」が、話を諸地方にもたらし、それぞれの地方の話として語ったともいわれる(注16)。こうした役割を担うのが唱導僧であり、従来行基のような私度僧が想定されてきた。しかし『霊異記』の下巻第3縁に登場する弁宗は、「白堂]を得意とし、信者に人気があったとされ、官寺の僧によっても行われていたのではないかと思われる(注17)。弁宗のような官僧が地方に赴いて法会を催した様子は、『霊異記』説話中にも見ることができる(注18)。鈴木景二氏は、こうした『霊異記』説話とともに、『東大寺諷誦文稿』を分析し、在地の有力者が催す私的法会に中央の官僧を招き、その場に集まった民衆に対し、その寺堂の由緒、また、彼らの系譜や功績について、講説という形で説くことによって、法会の功徳の共有とともに、新たな権威の構築と民衆統治をはかったと述べた(注19)。『東大寺諷誦文稿』(注20)は、まさに講説が必要とされた場に対応できるように整えられた雛形である。本文には次のようにある。]昇』とあり、これも状況に応じて換えるよう記されている。284行には「随時、随貴賤道俗男女可用辞。言増減取捨随宜。以上大略耳。」と割注があり、これは大略であって、各々の状況によって適宜対処するように記されている。このように、経典の功徳を例証する働きを持った説話、ないし講説には、一定の「型」が存在し、それらは官僧によって地方にもたらされ、法会などで、その場にふさわしい内容に変容され、受容されたのである。説話において「塑」の存在、地方での変容、その媒介としての官僧が想定される時、その図式を造像に置換することに違和感はないだろう。造像は経典の義軌に基づいて為される。目的によってその像種も異なる。それについて適切な助言をし得たのは、中央より訪れる官僧であり、また参考とされたのは、彼らによってもたらされた、279行此堂名云某。何故云某郷。何故云某棠。此棠大旦主先祖建立。(中略)281行駅路大道之辺毎物有便。(中略)284行貴哉、旦主。希有哉、大夫云。(後略)279行は、某をそれぞれの場に対応させるものであり、281行の割注には、「云若信;何j山若城-277 -

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