鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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「型Jすなわち絵画的図像であり、また、小像であったことだろう。一方、説話における在地での読み替えは、造像においては、作風に反映されているように思う。多田寺・円満寺像に見られる独特の作風は、彼の像特有のものだが、それは、地方における造像の実際、すなわち中央からもたらされた「型」がどのように彫刻としてあらわされるに至ったかを物語るのではないか。両像が制作された8世紀半ば以降は、「東大寺権別当実忠=+九箇条事」(注21)にその事績を伝える実忠のように、造営作業に携わるエ人に対し技術的立場から指導ができたであろう僧侶が出現したことが知られる。しかし、従来より図像的・教義的指導は僧侶が行うとしても、実際の作業は技術者たるエ人が行うのが一般的で(注22)、地方に「型]をもたらした僧侶が本格的に造像作業を行ったとは考えがたい。『霊異記』下巻第30縁「沙門功を積み仏の像を作り命終る時に臨みて異しき表を示す縁」には、紀伊国名草郡・能応寺の僧、観規が、生前彫り残した十一面観音像を気にかけ、死後再び蘇り、仏師・武蔵村主多利丸に造像を依頼する様子が記される。部氏と関係のある渡来系氏族に武蔵臣があることから、その可能性がある(注23)。また、観規自身、生前自ら造像を行ったと記されるが、俗姓は三間名干岐とあり、彼もまた、渡来系の一族に出自を持つ。これは説話ではあるが、地方の一寺院の仏像の制作に携わる者がこのように渡来系の人物であることは、造像の技術が、やはり外来の特殊技術であることを改めて認識させられる。特に多利丸は武蔵姓を持つことから、東国に縁の人物であるとも考えられ(注24)、そうした人物が仏師として紀伊国で造像を行っていることは、前述の僧侶の往来とともに、特殊技術を有したエ人の移動があったことも考えられる。さて、「型」を受容した環境についてだが、畿内では山林寺院が官僧の修行の場として、官寺や国家仏教と深い関係があったことは、既に指摘されている(注25)。近年北陸地域では、発掘調査がすすみ、山林寺院が平野からさほど遠くない位置に営まれていたことが明らかとなっている(注26)。特に「三千寺」と記した墨書土器が出上し、在地の道氏との関わりが考えられる三小牛ハバ遺跡と、従来道氏の氏寺とされてきた末松廃寺は、直線にして約7キロほど離れた、それぞれ山地と平野部に存在する。このことから、三小牛ハバ遺跡が末松廃寺に居住する僧侶の修行場である可能性が考えられ、中央における京内寺院と山寺の関係が北陸地域でも成立していたこ3 造像における「型」の変容ー地方における受容仏師•仏工の出自のほとんどは渡来系氏族であり、武蔵村主多利丸についても、物-278 -

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