注(1) 石川知彦「多田寺薬師如来像について」『大阪市立芙術館紀要J6 大阪市立美術館,1986年,とになる。さらに三小牛ハバ遣跡の所在地である旧加賀郡は、『霊異記」下巻第14縁「千手の呪を憶持する者を拍ちて以て現に悪死の報を得る」に神護3年(769)に優婆塞が山中で修行した場所としてあらわれることも、興味深い(注27)。このように、地方でも中央と同様の宗教環境が整っていた場合があり、したがって造像を担う立場の者が存在した可能性もある。鈴木氏は、中央の官僧が在地の僧侶と師弟関係を結び育てるなど、交流を持ったと述べる(注28)。同様のことが、仏師・多利丸に見るように、技術者にも想定されないだろうか。『霊異記』を概観すると、一般の民衆の手による造像が為されていた様子がわかる。それはごく手すさびのようなものだったろうが、先に述べた環境において造像の必要性が高まるにつれ、招かれた仏師や、技術的指導が可能な僧侶の指導をうけ、より本格的な造像を手がけるようになる者がいた可能性もあるのではないか。いまは可能性の提示に留めるのみだが、多田寺あるいは円満寺の像に感じられるおおらかな感性と独特の造形性に、貪欲に先端の技術を自らのものとしようとしたエ人の姿を垣間見る思いがする。おわりに以上、地方に伝わる天平仏の制作環境について、像の造形的特色の背後に想定される、僧侶や工人の生き生きとした姿、彼らの果たした役割など、同様に信仰の場で用いられた説話に関する分析を援用しながら、復元を試みた。なお、僧侶と造像の具体的な関わり、仏師というエ人組織についてなど、なお問題は多い。多くのご叱責を賜れば、幸いである。頁33■51頁-279 -(2) 井上一稔「作品解説(十一面観音立像)」「特別展天平』奈良国立博物館,1999年,230■231(3) 注(2)参照(4) 小田誠太郎「円満寺の木造十一面観音立像について」『和歌山県立博物館研究紀要』1,1996 年,1■ 15頁。尚、本像の頭上面はすべて後補であり、当初から十一面観音として造像されたかは不明である。(5) 長岡龍作「仏像表現における[型」とその伝播一平安初期菩薩像に関する一考察(上)(下)」『美術研究』351• 352, 1992年,181■195• 255■269頁、松浦正昭「法華寺本葬像と紫微中台十一面観音悔過」『近畿文化』652,2004年,1■4頁
元のページ ../index.html#288