(6) 以下『霊異記』という。なお、本論では[新日本古典文学大系』30岩波書店,1996年を参考(8) 中村史『日本霊異記と唱導』三弥井書悦,1995年33■42頁(15) 小島環穐「仏教と唱導文学」『図説日本の古典3日本霊異記』集英社,1981年,28■36頁(16) 高橋貢「日本霊異記から今昔物語集へ」『中古説話文学研究序説j桜楓杜,1974年,40■56頁(18) 上巻第11縁、中巻第11縁、下巻第19縁(19) 鈴木景二「都薔闘間交通と在地秩序ー奈良•平安初期の仏教を素材として一」『日本史研究』379,1994年,34■56頁66頁1996年,361■387頁図版の出典図1『わかさ小浜の文化財(図録)』小浜市教育委員会,1968年図2『法隆寺金堂壁画』監修・法隆寺,編集発行・朝日新聞社,1994年とし、引用はすべて本書による。(7) 益田勝実「経の説話一観音霊験諏の変貌」『日本文学』7,1970年,30■40頁(9) (前略)丁蘭の木の母すらなほし生ける相を現し、僧の感りて画ける女すらなほし哀ぶる形を応ふ。何にいはむや、是れ菩薩にして応へざらむや(10) 『大正蔵』39(11) 山口敦史「経典・注釈・説話一日本霊異記の観音霊験證と経疏ー」『日本文学』5,1998年,(12) 注(8)参照(13) 『大正蔵J50 (14) 『続日本紀j養老6年7月己卯条、天平宝字元年2月丁酉条(17) 「白堂」とは、従来「堂前に白す」として、信者の祈願を僧が取り次ぎ、本尊に申し上げる行為と解釈されるのが一般的だったが、悔過法要と解釈する見解(注(8)参照)や、言語が明瞭で声が通るという「亮堂」に類した言葉ではないかとの見解もある(『新日本古典文学大系』(岩波書店))。(20) 漢字仮名交じり文の最古の遺品として知られ、筆記年代は弘仁から天長の頃(810■833)とされる。本論では、『東大寺諷誦文稿』(中田祝夫解説・勉誠社文庫12,1976年)を参考とした。(21) 『東大寺要録j(22) 清水善三「平安時代初期におけるエ人組織についての一考察」『南都仏教』19,1966年,34■(23) 田中嗣人『日本古代仏師の研究』吉川弘文館,1983年(24) 平川南「韓国・城山山城跡木簡」『古代地方木簡の研究]吉川弘文館,2003年韓国・慶尚南道咸安郡出土の木簡に「口干支」の名が見え、三間名干岐は渡来系の人物と考えられる。また、多利丸が東国出身の可能性も、平川氏より御教示を受けた。(25) 薗田香融『平安仏教の研究』法蔵館,1981年(26) 久保智康「北陸の山岳寺院」『考占学ジャーナル」382,1994年,11■16頁(2方本郷真紹「古代北陸の宗教文化と交流」[越と古代の北陸(古代王権と交流3)』名著出版,(28) 注(19)参照-280-
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