鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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て赤色にするほど意識的に赤を多用しており、ここに密集するように集まった群像の表情にも、山宣を失った悲しみではなく、強い怒りと「復讐」を誓う同志たちの姿となっている。柩を覆う布が赤なのは、当時黒はアナキストの色とされていたため、プロレタリア美術を意味する赤に変更したのではないかと推測される(注14)。矢部は戦闘的な意味を込めてあえて、赤旗で同志の屍を包むように意図的に色彩を変えたのではないだろうか。ここで矢部作品は、アジテーションを強く感じさせるものとなり、その表現もいっそう描写主義になり、当初の「造型」の立場と逆転する方向に向かっている。モニュメンタルな感動を与えるのはむしろ大月の作品であろう。大月の構図は矢部に比べ、柩を中心に焦点が絞られているため登場する人物も少ないが、それは大月がテーマを拡散させまいという意図からであった。当時の大月は学校風のアカデミックを克服しようとしていた時期ではあったが、ここに登場する群像も、矢部の指摘にある「類型的」表現でなく、人物の配置も見事に符号し誰であるのかすぐに分かるように個々の表情も描き分けられている。大月は、柩の中の人物「山本宣治の死」という部分を強調させるため、矢部はそうではなく、密集する群像に囲まれた葬列を描くことで、「戦闘意欲を掻き立てる」表現を行った。大月は「告別」がきっかけとなり、第4回展では更に大きな300号の作品に着手し、主題絵画に挑戦しはじめる。第4回展(1931)に出品された大月源二「プロレタリア青年(青年獲得を主題せるコンポジション)」〔図9〕はその後ソ連に渡ったといわれているが発見されず、印刷された絵葉書(注15)でしかうかがうことができない。翌年逮捕、1935年まで長期間にわたる拘留を受けたため、この作品が大月のプロレタリア美術最後の作品となった。ここで現れた大きな変化はコンポジションの違いだろう。この構図は上部=組と下部の一組という三つの群像によって異なる場面を組み合わせ、一つのシーンとして大画面を構図するモンタージュ技法を用い、壁画の制作方法を意識しているようだ。「告別」に次ぐ野心作であり、大月は自作「プロレタリア青年」を「<部分>のく全体>に対する必然的連繋の方向が全く切断され」「一つの観念的な主題に終わっている(注16)」と自ら記しているが、まだ未熟で機械的な試みであったとしても、モチーフの形成において絵画的モンタージュの方法を意識的に採用しはじめたことに、一つの新しい方向を生んだといえる。この新展開は大月がプロレタリア・リアリズムの4 新しい試みと挫折-20 -

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