鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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(1986年)に収められたアデイ・イ・ジスベルトの説であろう。プッチ説を引用し、リポイの平面型に関する問題は、プッチ・イ・カダファルクが「サン・ピエトロ旧聖堂起源説(注3)」を提示して以来、ほとんど研究が進んでいない〔図4〕。だが、K. J.コナントが「紛れもなく、旧サン・ピエトロのバシリカに想を得た建築である」(注4)と述べるなど、プッチ説はその後の研究史に大きな影響を与えた。他方、わずか10行で示された仮説には十分な根拠が示されていないため、この説に対して消極的な姿勢をとる研究者も少なくない。例えば、E.ジュニエンはプッチの説については触れず、代わって「リポイの第四聖堂は11世紀前半にロンバルデイア出身の建築工匠によって建てられた」(注5)とするロンバルデイア起源説を主張した。リポイの平面型に関する最も新しい見解は、『カタルーニャ・ロマネスク』第10巻サン・ピエトロ旧聖堂からの影響を認めてはいるが、五廊式バシリカば必ずしもローマだけの特徴ではないと反論している。そして、「五廊式の平面型はローマに限らず、ミラノのサンタ・テクラ聖堂、さらにはイェルサレムやベッレヘムなど東方の作例にも見出される。したがって、リポイ第四聖堂のプランはコンスタンティヌス大帝時代のバシリカ全般から影響を受けたのだと思われ、その範囲にはロンバルデイアも含まれる。第四聖堂の建設を主導したオリバ修道院長は、度々ローマを訪れており、1013年には建設が始まっていたコモのサンタボンデイオ聖堂を見た可能性がある」(注6)と主張した。だが、アデイ・イ・ジスベルトの説は「五廊式」であるという点にこだわり過ぎ、もう一つの重要な問題を見落としている。リポイ第四聖棠のプランは、「貫通型トランセプト」を採用しており、これはローマの初期キリスト教バシリカとの密接な関係を裏付ける証拠である。オリバがローマに行ったのは確かだが、ミラノやコモを訪れたという保証はなく(注7)、コモのサンタボンデイオ聖堂〔図5〕とリポイ第四聖棠〔図1〕の平面型を比べると、両者の相違は顕著である。また、イェルサレムの聖墳墓教会、ベッレヘムの降誕教会は、トランセプトではなく、ロトンダや八角堂を接続、もしくは隣接して建てるという構想に基づいており、リポイ第四聖棠の比較作例としては不適切であろう。さらに、ミラノのサンタ・テクラ〔図6〕との関連性についても疑念を抱かざるを得ない。ミラノでは、トランセプトの形式が、「貫通型」ではなく、「三分割型Jだからである。次章では、貫通型トランセプトの典礼上の機能に関する考察を行い、リポイ第四聖堂の平面型の起源と空間表象を明らかにする。-283 -

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