5.献堂記録に基づく検証10世紀の後半、イスパニア辺境領は深刻な危機に直面していた。カロリング朝西フにおいて既にトランセプトが導入されていたとすれば、身廊と側廊の幅を合わせた長さとほぼ等しかったのではないかと推察される。身廊と側廊を合わせた南北方向の内法と身廊の全長の比は、24.64m: 36.99m = 1 : 1.50であり、サン・ピエトロ旧聖堂のプランからトランセプト両端のエクセドラを除いた平面型に近似する。オリバ修道院長はローマを度々訪れ(注17)、サン・ピエトロ旧聖堂にはトランセプトの両端に南北に張り出す拡張部があることに注目したのではないだろうか。それゆえ、既に完成していた第三聖堂を七祭室に拡張し、サン・ピエトロ旧聖堂により忠実なプランとし、再献堂したのだと推察される。リポイの献堂記録には、サン・ピエトロ旧聖堂、ローマ教皇との密接な結びつきを示唆する記述が少なくともニカ所ある。筆者は、これらの史料に基づき、第四聖堂の空間シンボリズムを以下のように読み解いた。まず、977年、第三聖堂の献堂記録では、カタルーニャの高位聖職者について触れた箇所で、「ローマのサン・ピエトロヘと向かう旅の途上にあって肉体は不在であったにもかかわらずquilicet ob iter domni Petri absens corpore」、その魂は席を共にしていたと書かれている(注18)。この記録は、既に10世紀においてリポイからローマヘ向かった聖職者がいたことを明らかにしている。その目的は、ローマ教皇の保護を求め、イスパニア辺境領とローマ教皇との関係強化を図るためだったであろう。ランクの衰亡である。バルセロナ伯は名目上、西フランクの貴族であり、王家の承認無しにはその地位は確かなものとはならない。修道院も同じく王家の承認と保護を必要としていたが、カロリング朝の末期には、宮廷との連絡が非常に困難になっていた。そこでリポイの修道院は、教皇の承認と保護を求め、951年には「教皇アガペトゥス二世の教書」を得ている(注19)。西フランクの弱体化は、イスパニア辺境領とピレネー以北との文化的交流が途絶え、軍事的な後ろ楯を失うという事態を招いた。実際、西フランクからの援軍はないままに、985年、バルセロナはイスラム勢力によって破壊されている。その上、987年にはカロリング朝の王家が断絶してしまった。バルセロナ伯が独立を決意したのはこの頃であったと言われている。しかし、国王不在の状況は、諸侯同士の対立を生み、キリスト教勢力は分裂していた。このような状況下にあって、バルセロナ伯の親族であったセルダーニャ・バザルー伯オリバは、1002年、世俗の地位を捨て、リポイの修道院に入る。1008年には修道院-286 -
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