鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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(1) 立面構成については以下を参照。拙論「リポイのサンタ・マリア修道院聖堂ーアプシス壁面構成に関する考察」『スペイン・ラテンアメリカ美術史研究』第5号,1 〜9頁,2004年。(2) De Dalmases, N./Jose i Pitarch, A.: Historia de !'Art Catala. Vo/um I. Els Inicis i !'Art Romanic. Segles IX-XII, Barcelona, 1986, p. 119. (3) Puig i Cadafalch, J. et al.: L'Arquitectura Romanica a Catalunya, 3 vols., Barcelona, 1909-1918 (reprint, Barcelona 2001), Vol. II, p. 162. (4) Conant, K. J.: Carolingian and Romanesque Architecture 800 to 1200, Fourth edition, New Haven/ London, 1978, p. 116. (5) Junyent, E.: El Monestir de Santa Maria de Ripoll, Barcelona, 1975, p. 27. 6.結論長となり、度々ローマを訪れ、教皇からの深い信任を得た。オリバはキュクサのサン・ミシェル修道院長、ビック司教も兼ね、カタルーニャ宗教界の指導者となった。オリバ時代の1032年、リポイ第四聖堂の献堂記録には、「至福なる使徒ペテロの権威によってperauctoritatem beatri Petri Apostoli」承認されたと書かれている(注20)。決して長くはない献堂記録に、それ以前の記録には現れなかった表現が用いられた背景には、聖俗両界の諸侯に、「カタルーニャの独立」と「ローマ教皇との関係強化」の方針を宣言しようとする意図が読み取れる。以上の考察により、リポイ修道院聖堂における五廊式の身廊部と貰通型トランセプトの組み合わせは、ローマ式平面型を採用した結果であり、サン・ピエトロ旧聖棠が起瀕であると結論付けられる。したがって、第四聖棠のローマ式平面型は、ローマ教皇との密接な関係を明示し、カタルーニャの新たな政治的、文化的ヴィジョンを宣言するものであったと考えられる。リポイ修道院聖堂は、バルセロナ伯家の「霊廟」でもある。伝説的な英雄、バルセロナ伯ギフレはここに埋葬された。リポイ第四聖堂では、ローマのサン・ピエトロ旧聖堂と同様、側廊やトランセプトに安置された石棺、祭壇を順次詣でるための動線が設定されていたのだと考えられる。それは、世俗におけるバルセロナ伯の権威を高める役割を担っていただろう。同時に、オリバはリポイに数多くの書物を集め、キリスト教文化の振興に尽力した。リポイが学芸の都となり、バルセロナ伯家の祖廟が荘厳化され、聖都ローマと視覚的に結びつけられたことは、独立したばかりのカタルーニャにおけるキリスト教勢力の求心力となったと推察される。リポイとバルセロナは、それぞれ聖と俗、文化と政治の核として、カタルーニャを独立と統一、そしてレコンキスタヘと導いていったのである。1王-287 -

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