注(1) 矢部友衛「日本プロレタリア美術運動史」『日本プロレタリア美術史』造形社1972年し‘°(2)大月源二「前哨戦」『戦旗7月号』第1巻第三号戦旗杜1928年(3) 永田一脩[日本に於けるプロレタリア美術運動」『プロレタリア絵画論』天人社1930年(4)鳥居敏文インタビュー2003年聞き手星田七重(5) 岡本唐貴「工場から出発しよう」『プロ美術』1929年11月創刊号スローガンのもとで、より新しい成果を模索していることを示している。モンタージュ技法は、すでに大月が漫画やポスターの領域でつかんだものと推測される。それまで手掛けてきたポスターは、街頭でも人の目を惹きつけることを主要な条件としていたため、その様式はできるだけ単純化された線と色彩をもったコンポジションでなければならない。大月の逮捕までもう少し時間があり、画面に求心力を持たせることができたならば、プロレタリア絵画に新しい農かさを加えることになったかもしれな大月に対して厳しい批評を加えてきた矢部友衛も、この作品の構成が離ればなれであることを指摘し、「現象羅列的Jであるとしながらも「壁画的新形式への探究のもとに飛躍的努力を示している(注17)」とその変化を認めた。運動が壊滅する寸前に至って、互いの作風は大きく変化していた。矢部は、その後、前衛的な表現形態を捨て去り、もともともっていた独自性と逆行するように、やがて印象派の外光を取り入れた研究に進んで行く。「AR」と「造型」の急速な結びつきは弾圧下の不安からもあろうが、互いの独自性と特徴を活かした方向で結束することはなく、そのまま両方とも弾圧され運動は壊滅した。ARはかつて柳瀬正夢のように、弾圧下の緊迫した状態にあってはモニュメンタルな形式的表現に時間を費やしている場合ではないという考えが主流であった。美術作品は、労働者を奮起させ、見るものの心を一挙に掴みとるような効果をねらわなければならず、それを生きた運動に取り入れるべきだと主張したAR内では、タブローの制作はむしろ遠ざけられる傾向にあったのだ。しかし、PP内の実際のありようは、展覧会を重ねるたびより多様になっていき、旧AR出身者であっても、モニュメンタルな形式を描き出すものがあらわれたのである。つまり、大月源二は、プロパガンダの側面を持つ小さい一つの漫画やカット、ポスターなどのデザイン的表現から、タブロー、壁画に至るまで絵画上のあらゆるジャンルを駆使してゆける総合力のある美術家として、新しく生まれかわろうとしていたのである。-21 -
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