象するというおもしろさが追求されている。『年中行事絵巻』の風流笠ではさらに、稲荷祭と祇園御霊会の両方において、冠のかざりの下に、布製の仮面がつけられていたことが判明する。これは、日常の顔に仮装するための仮面であったと考えるべきであろう。「年中行事絵巻」に描かれた風流笠と同様に、元来被り物であるものの上に、異なる種類の被り物のかざりを付す趣向は、戦国時代の変り兜にも見い出すことができる。変り兜の造形においても、兜全体を烏帽子や頭巾などの被り物に見立てた例が複数あり、『年中行事絵巻』に見られるかざりと共通した趣向を確認することができる。このようなかざりのあり方は、祭や戦という非日常の場において、敢えて日常性を演出することにより、意外性を発揮したものと指摘できる。『年中行事絵巻』においては、筑や金輪を兜に、杓子を前立金具に見立てたり、箸を長刀の代わりに持っている随兵の姿も、稲荷祭の馬長の行列の中に見ることができる。祇園御霊会などの随兵においても、また戦国時代の変り兜でも、武装は一種の仮装として機能しており、意外な素材で武装することが好まれたことが分かる。笠で日常の被り物を表現し、同時に日用品で武装をするという趣向からは、祭や戦の場の〈異装〉が、先に見た酒瓶や的と矢のように、神事につながるものを志向するばかりでなく、非日常の場において、敢えて日常性を追求する傾向も有していることを示しているだろう。祭本来の意味を追求する機能と平行して、本来の意味を意図的にそらす遊戯性が、かざりには存在しているのである。これまで見てきた『年中行事絵巻』は、その原本は、後白河法皇が制作させ、院御所である蓮華王院宝蔵に納められていたものと言われている。祭の風流笠などを、後白河院が描かせ、その絵巻を宝蔵に秘蔵して、みずから独占的に鑑賞していたことには、どのような意味があるのだろうか。祇園御霊会においては、長保元年(999)、元骨なる雑芸者が、大嘗祭に用いる標山を、祇園御霊会に持ち込んで以来、各種の造り物が見られるようになっていったという。標山のかざりは、鳥居に山の造り物、蓬莱山と太陽や鶴のかざりなどを付けた風流笠が、稲荷祭と祇園御霊会に見られることに引き継がれている。これらは、蓬莱山などが造られた際には、吉祥のかざりとしての意味を有するとともに、正倉院の作り山などの伝統につらなる造形であることが指摘されている(注5)。後白河院の時代までには、この平安中期から行われていた標山作りのほかに、これ2.後白河院と祇園御霊会および稲荷祭の絵画-295 -『年中行事絵巻』の制作背景
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