鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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(1122)以来途絶えていた相撲節会が復興されるなど、復古的な行事が行われた。こまで見てきたような、各種の風流かざりが造られるようになっていた。後白河院が生まれた大治2年(1127)には、白河院および鳥羽院が、祇園御霊会の御興渡御を見物するなど、院みずからが祇園御霊会の見物に出ることもあり(注6)、院が各種の風流笠を直接目にする機会も、後白河院が長ずる時代に先んじてあったことが分かる。後白河天皇が即位する頃になると、『百錬抄』によれば、保元2年(1157)に、後白河天皇は馬上役制度を作り、洛中の富家に課税を行い、祭の費用を負担させるようにしたという(注7)。同年には、御厩舎人六郎先生光吉なる人物が初の馬頭役となり、祭が催されている。また、後の承安2年(1172)には、後白河院は祇固御霊会のために神輿三基・獅子七頭を寄進、みずからも祭を見物し、馬長なども出すよう近臣に勧めている(注8)。承安2年の後白河院の祇園御霊会見物については、この時、院が牛車が暴走するさまを目にしたことが、説話に残されてもいる(注9)。一方、稲荷祭も、平安時代中期以降、渡御の沿道には桟敷が設けられ、行列を奉拝する人々が増加してきていた(注10)。例えば久安6年(1150)以降の、左大臣藤原頼長の奉幣の熱心さは有名であり、中でも久寿元年(1154)には、稲荷祭が延引されたにもかかわらず、強引に幣や神馬を奉るほどであったという(注11)。このような時代背景の中、『年中行事絵巻』は、1170年代後半頃までに数年をかけて制作された、全60巻とも伝えられる大部の絵巻物であったと考えられている。この絵巻は、後白河院みずからを含め、貴族たちが熱心に祇園御霊会や稲荷祭を見物し、奉幣していた時代の作品であると言うことができる。後白河天皇の在位期間中である保元3年(1158)には、祇園御霊会と稲荷祭が盛んに行われていたほか、長元7年(1034)以来廃絶していた内宴、および保安3年れは、保元2年(1157)に、それまで荒廃していた内裏が再建されたことを承けており、馬上役の制度が確立した年と同年に、宮廷行事も盛んに行われるようになっていた。そして、内宴と相撲節会が復興された保元3年には、『仁安御喫行幸絵巻』七巻および『保元城南寺競馬絵巻』など(注12)、後白河天皇の時代の行事を記録する絵巻物が制作された。後白河院のもとでは、このほか最勝光院障子絵や承安五節絵など、行事を記録する絵が多数制作されている(年表参照)。祇園御霊会や稲荷祭の様子は、日記資料等に散見することができるものの、『年中行事絵巻』に先行する行事絵などの絵画には、ほとんど描かれてこなかった。問題は後白河院の時代になって、風流笠の様子が描写されるようになるのが、復興した行事、-296 -

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