⑳ 江戸時代絵画史における中国道教系民間信仰の受容研究者:神戸市立博物館学芸員成澤勝嗣はじめに江戸時代における「異国趣味」としてイメージされるのは、現在の研究状況を見る限りでは、ほとんど圧倒的にオランダ趣味であろう。ただし、当時からそうであったかといえば事情は逆で、江戸時代は実は中国趣味の全盛であった。この逆転現象は近代以降、日本の脱亜入欧路線にともなって発生したものであり、その価値観が現在もなお、異国趣味といえば西洋趣味、という風潮となって続いているのである。それはそれでよいとしても、ひるがえって現今、江戸時代の中国趣味への言及の少なさは、当時の実態に対してややもすればかたよったイメージを形成する原因となっているのではないか、といささかの不安を感じる。この研究がめざすところは、そうした偏向への反省と、その不均衡のささやかな修正にある。江戸時代絵画の中国趣味といえば、まず承応3年(1654)に渡来した隠元禅師がもたらした黄漿宗の絵画、ついで享保16年(1731)来日の沈南頻が伝えた写実的な花鳥図、今のところではこの二つが大きな影響として認知されている。いずれも長崎を通じて日本へ流入し、ひろく人々の異国趣味をかきたてたものであり、この二つが大きな契機であったことはまちがいない。これを、かたや十七世紀の仏教絵画、かたや十八世紀の花鳥画と括ってしまえればことは簡単だが、当時の長崎は江戸幕府公許の国際貿易港であり、一時滞在と定住をあわせて、常時多数の中国人たちが暮らしていた。そして、その大部分が禅僧でもなければ専門画家でもない、世俗の市民層であった。実際に中国趣味の絵画遺品を集め、研究をすすめていくにつれ、この二つの範疇では収まりきらない、また時代的にも二つの世紀をまたがって存続する、伏流のような部分がこぼれ出る。その部分を、本研究では「道教系民間信仰にもとづく吉祥絵画」としてまとめてみようとした。道教とは中国固有の土着宗教であり、古代の呪術的な民間信仰や神仙思想をベースとしている。子孫繁栄、立身出世、不老長生などの現世利益を追い求め、最終的には仙人となって天上界へ登ることを願う。長崎にできた華僑社会の日常生活が、本土と同様に道教系の民間信仰で彩られていたことは、元禄2年(1689)に中国人居留地として作られた唐人屋敷の中にも、上神棠(土地の神)や天后棠(航海の神、ここには関帝を合わせ祀る)が設けられていたことから容易に窺える。しかし、それは布教を-30l -
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