鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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目的とする組織化された宗教集団が長崎へ来日していたという意味ではなく、唐人屋敷滞在者たちが、折々に現世利益を求めて祈りを捧げる、共同体の心のよりどころのような土俗的な廟祠であった。道教自身がそうであるように、整然と教義をととのえた体系的な形態をもたず、日本の神道と同様、やおよろずの神を信心するあいまいなものであった点で、日本人にも容易に受け入れられたのであろう。長崎市中に永住する中国人(住宅唐人)たちの間でも、事情は似たものであったと思われる。こうしてまず長崎で受容され、日本へひろがっていった道教系民間信仰の神像絵画としては、福禄寿三星図、万事吉兆図(和合神)、群仙(または八仙)迎寿図、吊鯉図、関羽像などがあげられる。本稿では、そのうち前二者について述べていきたい。福禄寿三星図福星・禄星・寿星の三神を描く画題である。福星とは十二年を公転周期とする木星(歳星)のことで、福をもたらす天官の化身という。高級官僚の姿で如意をもち、万事如意を寓意する。禄星は諸説あって一定しないが、加官進禄をつかさどる文昌星(北斗七星のひとつ)であるとか、子供の守り神である張仙であるといわれる。老隠士の風貌で、多く子供とともに描かれる。寿星は南極老人星ともいい、竜骨座のアルファ星カノープスのこと。この星は日本では地平線すれすれを運行するため、天文ファン憧れのまとである。したがってこの星が見えるのは慶事の前兆といわれた。不老長寿の神で、人の寿命を記した巻物を持つか、あるいは不老長寿のシンボルである桃とともに描かれる。日本では寿老人として親しまれている。この画像に関してはすでに松浦清氏による詳しい研究があるが、ここではなるべくそれとの重複を避けつつ、日本への図像伝播について考えながら略説したい(注l)。まず〔図1〕は昨年末、日本のオークションで偶然目に留まった中国製の大作。日本での伝来はまったく不明。専門画家の手による本格的な作画で、「八十三老人陳星写」の款記をもつ。陳星は字を日星といった、というぐらいしかわからない画人であるが、京都国立博物館に「乙巳秋日」の年紀をもつ陳星の「秋桂月兎図」があり、清朝初期花鳥画の基準作として乙巳を康煕4年(1665)に比定されているから、本図もおおよそ17世紀後半の作と見られる。筆者は、実をいうとこの作品と出会うまで、福禄寿三星の図像も他の道教系神像と同じように、簡易な年画(蘇州版画とか)のかたちで中国から伝わったものと想像していた。その場合、原本は無背景の礼拝用画像であった公算が高い。しかし本図のような、松樹を中心に背景の自然描写を備えた本格的絵画作品が来ていた可能性も、こ-302 -

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