鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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121.7X62.lcm(布袋渡水図)と、だいたい等しい。とすれば、あれは日本製の福禄(1639■95)が、やはり日本でいくつかの簡略な福禄寿三星図を描き残しているのもれであながち否定できなくなった。その推定を補強するのが〔図2〕である。福星は松樹にもたれ、禄星は鹿(禄と同音)に腰掛けて、寿星とともに巻物を見ている。背後で桃を捧げる童子の顔は、陳星の作品とよく似ている。左上に隠元81歳、すなわち寛文12年(1672)に黄槃山萬福寺で記した賛があり、画家の落款はないものの、画風から日本で描かれたものと考えられる。実はこれは1986年に大阪市立博物館で開催された「明国と日本」展において展示されたものだが、現在は行方が知れない。筆者も会楊でこの作品を見たものの、正直言って、当時は福禄寿三星図について何の興味も知識もなかった頃なので、のほほんと見過ごしてしまった。ようやくこの作品の重要性に気づいたのは、1991年に自分が「隠元禅師と黄漿宗の絵画展」(於神戸市立博物館)をやることになって、黄漿山萬福寺所蔵の伝渡辺秀石筆(無落款)「布袋渡水図」を拝借した後のことである。この絵はやはり隠元の賛をもち、本来双幅用の箱に、現在は1幅のみが収められている。そして、寛文13年に作成された萬福寺蔵の写本『黄漿開山塔院什物数』は、この作品について「南極老人図乙幅長崎画士秀石筆老和尚題、弥勒過水図乙幅同老和尚題」と記すのである(布袋は弥勒の化身とされる)。いずれのときにか、「南極老人図」のみが散逸してしまったものらしい。その「南極老人図」こそは、「明国と日本」展に出品されていた、かの福禄寿三星図だったのではないか。隠元の賛は両方とも「壬子仲冬日」と一致し、画風も酷似している。画面寸法もかたや118.1X66.5cm(福禄寿三星図)、かたや寿三星図として古例であるばかりでなく、基準作のまったくない渡辺秀石(長崎の初代唐絵目利)の遺品として、「布袋渡水図」とともに、まず確実なものとなる。あわてて所在を問い合わせたものの、はや後の祭り。当時の所有者はすでにこれを手離しており、13年を経た今もなお、行方は杏として知れない。この作品を取り逃がしたことは、筆者の学芸員稼業における最大の不覚であった。ともあれ、本図の存在は、中固から渡来する黄漿禅のなかに道教的要素が混入していたことを示唆するとともに、それを受けて、長崎の画人が寛文12年以前に福禄寿三星図を作っていた証拠となるものである。また、これと時期を接して、黄槃僧ではないが、延宝4年(1676)に中国から来朝し、水戸徳川家に招かれた曹洞僧・東皐心越注目される(注2)。-303 -

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